メッセージ(大谷孝志師)

神の時に生きる私達
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年8月1日
聖書 IIコリント4:16-18「神の時に生きる私達」  大谷孝志牧師

 「時」を表す言葉が二つあります。時刻と時間です。時間は始まりと終わりがある「量的時」で、時刻は、物事が生起した時、する時で「意味を持つ時」と言えます。ギリシア語では時間をクロノス、時をカイロスと呼びます。

 18節に「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く」と有ります。この「見えるものは一時的」の時は、無くなることを意味する「量的時」になります。「見えないものは永遠に続く」とあるので、見えない存在の時が永遠に続き、見えないものには終わるときがないと教えているので、期間がない時という「意味を持つ時」になります。但し日本語では「永遠に続く」と訳しますが、英語・ドイツ語聖書は共に、「永遠です」と断定形になっています。「見えないものは永遠です」と訳す方が適切と私は考えます。

 時間には先程言いましたように、始まりと終わりがあります。しかし絶対的始まりでも絶対的終わりでもありません。ですからその「量的時」に人は時として翻弄されます。自分の人生を考えてみましょう。私の誕生という始まりはあります。しかし、私の人生はそれ以前に起きています。私の両親、そしてその両親の誕生から私の人生は既に始まっているのです。私の人生は、その連続した時間の流れの中の一部分に過ぎないからです。また、宇宙にも始まりがあり138億年前に宇宙時間が始まり、超高温・超高密度の火の玉が「ビッグバン」と呼ばれる大爆発後、急膨張により宇宙は誕生していて、今も膨張し続け、その時の流れの中で様々な出来事が起きていると考えています。この説は、時を時間の観念で捉えています。これに対して、物事が生起する「時」の意味を大切にしていたのが、イスラエルの人々、聖書の世界です。そして私達も、、この世界の全て事は神の働きと結び付いていると考えます。そう私達は信仰生活の中での経験からそう知っています。神の働き掛けによって、この世の全ての出来事が生起しているので、全ては神の「時」の中の出来事であると知り、全ての事には「時」が有り、その時々の中に神の意志が示されていると考えましょう。物事への見方が変わっていきます。

 何故かと言うと、時間は誰にとっても同じ筈ですが、同じ時間でも、熱中してある事をしていると、あっという間に過ぎるが、いやいやしたり、辛い思いをしながらしていると、とても長く感じられるのではないでしょうか。その時は、自分にとって意味有る時間になっています。ですから、非常に長く感じる時もあれば、あっという間に過ぎる時も有ります。全ての時を意味有る神の時と考える私達は、時間に流されず、今に立ち止まり,過去将来を考えられます。私達は、物事を客観的に、或る意味で冷静に見られます。

 私達はそれぞれに自分の時を生きています。でも、ただ時間を過ごしているのではありません。私達は神の御旨によってこの世に生まれ、神が目的をもって私達を生かしていると知るからです。そして、神が定めている時にこの世での生活を終え、霊の体に甦り、御国で神と共に永遠に生きることになります。主イエスを信じ救われた者は、そのように生きることができます。
 しかしその一方、時間的に考えると、私という体を形成している細胞の遺伝子に組み込まれた情報は、両親を初めとした先祖から受け継いで来たものです。そして子や孫に受け継がれて行きます。その永続的に続く時間の中の一時期を私は生きているに過ぎません。そして何かに躓いた時、人生は結局空しい、自分にはどうにもならないものと考え、諦めてしまう人もいます。
 しかし聖書は私達に、私という人格は、この世に誕生した時から、常に新しく形成され続けていると教えています。私は、様々な意味を持つ時の積み重ねにより、変化し、成長しているのです。私が生きている時間は、神によって新しく造られた時であり、造られ続けている「意味ある時」だからです。言葉を換えてい言うなら、神の無から有の創造が、私という人間において常に行われ続けているのです。今日の4:16「たとえ私たちの外なる人は滅びても、内なる人は日々新たにされています」とのパウロの言葉が、私達の人生に起きているこの目には見えない霊的事実、神の御業を表しているのです。

 この世を単に時間の流れと考えている人は、見えるものだけに目を留め、それが全てと考えている人と言えます。それから起きる問題の一つは、単に時間の連続、原因結果の連続と考えるので、先が見えると思ってしまうことにあります。自分の過去の経験、相手との関わりの中で起きた事から先の事を判断したり、決定づけてしまうことが挙げられます。更に言うなら、自分や人の能力も時間の流れの中にあることと考えるので、将来に絶望したり、全てを空しく感じてしまったりすることもあります。それでは袋小路の人生、五里霧中の人生を、夢も希望も持てずに、手探りで歩くことになります。

 しかし伝道者の書3章に「すべてのことには定まった時があり」「神のなさることは、すべてその時にかなって美しい」とあります。聖書が教えるこの世の人生についての見方は、そのようなものとは全く異なるのです。当たり前の事ですが、全ての事には始まりと終わりがあります。今は何もなく、希望が持てない時でも、神は新しい事を始めてくれると信じられます。そして、この状況が続いたらとても耐えられないと思う時も、必ず終わりがあると信じ、耐えられます。そして全ては神のみ手の内にある事、神がしていることなのです。しかも、神のなさることは全てその時にかなって美しいのです。でも、この伝道者が言うように、人には神が行う御業の始まりから終わりまでを見極めることができないのは事実です。でも、神は私達を愛しています。私達一人一人にとって、その時に適った良い事をしているのです。感謝です。

 「百聞は一見に過ぎず」と言う格言があります。確かに見ると聞くとは大違いです。しかし、人はどうしても見える世界に囚われてしまう危険がそこにはあります。自分には見えず、判らない真理、真実が隠されていることがあります。聖書は、自分が見えない世界に生きていると信じよと教えます。

 見えない永遠である神の御旨に目を留めていましょう。そうすれば内なる人が日々新たにされます。そしてどんな状況に置かれても、私達は「今は恵みの時、今は救いの日」と信じましょう。希望と平安をもって生きられます。

十字架と復活の主イエスが、共にいて、私達を助け導いています。感謝です。