メッセージ(大谷孝志師)
信仰は生き方を変える
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年8月1日
テトス 2:11-15「信仰は生き方を変える」 牧師 大谷 孝志

 教会という所は清い所。とは言え、集まって来る一人一人は、様々な罪にまみれている。その人その人なりの罪を、その体に染み込ませて礼拝に出席している。いや、だからこそ礼拝に来ていると言って良い。何故なら、礼拝に来ている教会こそが、祝福に満ちた望み、大いなる神であり私達の救い主、主イエス・キリストを礼拝する清い所だから。教会が世の中と同じであったら、礼拝する為に教会に来る人はいないと思う。この世の生活では満たされない、癒されない確かなものが、ここにあるから教会に来る。汚れた私達だからこそ、主がここに招き、その私達が清らかな思いで一時を過ごせる。そこに教会、礼拝の素晴らしさがある。

 確かに外の世界のこの世には、清らかなものと汚れたものが満ちている。信徒でなくても献身的に清々しい思いをもって生活している人々がいる。昔、沖縄の離島で、何人もの里子を受け入れて生活している郵便局長夫婦がテレビで紹介されていた。優しくにこやかな夫婦の笑顔が印象的だった。コロナ禍の中、収入が激減した人々の為に、食料の援助等を喜んでしている人々もいる。信徒ではないが、恵まれない人々への大きく包み込む強い愛を感じさせられ、私も何かしなければと思わされる。しかし、家族間や職場での諍いから、殺し合いに発展する事件は後を絶たない。教会の中でも信徒同士の言葉や感情のすれ違いから、仲違いが起き、傷付け合ってしまうことも。人間同士の関係はどこでも複雑で難しい。

 しかしこの世の人達には、クリスチャンというと清らかな生活をしている人達という印象は根強く残ってる。勿論、私達自身は自分を見ると清らかな所など、見付けるのも難しい。それでも、人を安心して愛せる、安心して人の愛を受け入れられるという良さを持っているのではないか。信徒自身が自分の良さを認めることが大切。人を信じ切り、自分の人生に希望を持ち続けられる良さを持つ。私達の思いを遙かに超えて包み込む主イエスの愛が、私達の心を清くしているから。

 主が、私達を聖別し、この世で私達を縛る悪の力から私達を解放し、良い業に熱心な者とする為に、十字架に掛かって死に、私達の為にご自身を献げたから。その主が復活し、私達と共にいて私達と出会う。その時、私達は自分がどんな生き方をすべきか、どんな生き方ができるかを知る。自分が生きている理由を知る。

 最初に言ったように、教会に来なくても主イエスを信じなくても、善い行いはできる。神はご自分のかたちに創造し、主はその人の為にも十字架に掛かって死んだから。また、キリスト教以外の宗教でも慎み深く、正しい生活はできる。外から見れば、信徒もそうでない人も同じように見えることはある。信徒も必ず他人の為に生きるのでなく、自分の為に生き、自分の生活を大事にする。違うのは、信徒は自分と他人の事を対等に秤に掛け、自分を愛するように相手を愛せること。私達は教会に来る前、主イエスを信じる前はどうだったかを考えてみよう。自分が的外れの生き方をしても、人間だから、他の人達もしているのだから仕方がないと、罪に浸りきって生活の中で、イライラし、悶々としていた経験は無いか。しかし、無自覚に罪に浸りきっていた生活から私達を救い出す為に十字架に掛かって死んだ主イエスを改めて、自分の心に刻み直そう。神が「私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって聖霊による再生と刷新の洗いによって、私たちを救」い、神は「この聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださった(3:3,4)」から、今の私達があると。