メッセージ(大谷孝志師)

主の世界に生きる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年8月8日
聖書 ヨハネ1:29-42「主の世界に生きる」  大谷孝志牧師

 この福音書を記したヨハネは、今日のバプテスマのヨハネの言葉によって、イエスが誰であるかを明らかにしていきます。初めは「世の罪を取り除く神の子羊」です。彼がこう言ったと記したのは、イスラエルの人々に、出エジプトの時、当時のイスラエルの民が、主に命じられて羊を屠り、その血を鴨居と二本の柱に塗り、羊が流した血により滅びを免れたことを思い起こさせる為です。この福音書を読む人々に、このイエスこそが、ご自身の十字架の血により、全ての人を罪を贖う主キリストであると彼は知らせているのです。

 次に「私より先におられた」方とヨハネは言います。これは自分より先に生まれたからではありません。人となって世に来た主イエスは、全被造物に先立って存在していた方で、万物を創造した方と彼は宣言しているのです。

 31,33節に二回「私自身もこの方を知らなかった」が繰り返されています。これは、自分がそうだったように、イエスが主キリストであると知るのは、御霊に知らされる以外には、人には知ることができないと示す為です。記者ヨハネは他の福音書が記した<主イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたこと>を記しません。浸礼者ヨハネが主イエスより上の者だとの印象を与えるのを避ける為です。最後に、彼に水でバプテスマを授けるよう命じた神に「御霊がある人に下って、その上に留まるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である」と言われたと記します。彼は、神とイエスと浸礼者ヨハネの関係を明確に示すことで「神の子羊」と記したイエスが、神の愛する御子であるという霊的事実を強調します。
 彼がこう記したのは、ヨルダン川で水で人々に悔い改めのバプテスマを授けていたヨハネを、人々が特別視していたからです。共観福音書によれば、人々はユダヤ全域から彼の所に来て、自分の罪を告白し、バプテスマを受けました。その影響力は大きく、先月学んだように、ユダヤの指導者達が人を遣わして彼がキリストか、或いは神が遣わした特別な者かどうかを確かめさせた程だったからです。ですから記者ヨハネは、彼はバプテスマを授けてはいるが、彼はそのような者ではないこと、彼の後に来る方が、世の罪を取り除く神の子羊、神の愛する御子であることを、イスラエルの人々に明らかにし、彼はそれを証しする為に神に遣わされた者に過ぎないと知らせたのです。

 浸礼者は人々に、悔い改めを要求しました。自分の罪を認め、神に赦して貰いなさいと教えました。私達も主イエス・キリストを信じ、自分の罪を告白して救われ、神の子とされ、主の豊かな恵みを味わって生きています。彼が、神が語り掛け、自分に教えてくれたからできたと言うように、私達も主イエスを救い主と信じる信仰を与えられた時のことを思い起こし、その時に知った恵みと愛に満ちた主の御心を、自分の周囲の人に伝えていきましょう。

 さて、バプテスマのヨハネが二人の弟子と共に立っているとイエスが歩いて行くのが見えました。弟子の一人はアンデレ、一人は福音書の記者ヨハネと考えられています。彼はイエスを見て「神の子羊」と弟子達に言いました。

 「世の罪を取り除く」を略されていますが、この方こそ神が世の人の罪を取り除く為に遣わした救い主だと教えたのです。それを聞いた二人はイエスに付いて行きます。すると主は振り向き、二人に「何を求めているのですか」と聞きます。聞かれた二人は「ラビ(訳すと先生)、どこにお泊まりですか」と尋ねました。ラビは、ユダヤ教の学者や公認教師の称号です。彼らが「主よ」ではなく「ラビ」と呼び掛けたのは、師のヨハネからイエスは救い主と聞いたのですが、自分達には神について詳しい人にしか見えなかったからです。でも彼らが、神について聞くのではなく、泊まる所を聞いたのは、並の教師とは違う何かを感じ、この方なら自分達の求めに応えてくれると思ったからです。イエスに泊まっている場所を聞いたことには、大きな意味がありました。するとイエスは「付いて来なさい。そうすれば分かります」と言います。私達も主イエス・キリストが救い主と信じている人に、その事を知らされ、人により様々な経過を経て、教会に行こうと思い、来ています。自分が求めるものを教会に来れば得られると思うからです。しかし、それがこの世で得るものの範囲にあるものに過ぎなければ、その人は求めるものを得られず、失望して教会を去ります。本当に自分に必要なものが何か分かっていなかったからです。彼らはどこに泊まっているかをイエスに尋ねました。イエスのいる場所に自分も居たいと思ったからです。この思いが彼らの人生を大きく変えることになります。私達も教会に来ていますが、教会が自分の生活の延長線上の場所にいるままでは、真に求めるものは得られないのです。主イエスとの生活の中、主の世界の中に入る決断をする必要があるのです。

 彼らは付いて行って、イエスが泊まっている所を見ました。そしてその日、主のもとに留まったのです。二人は主と同じ世界に生き、同じ時間を過ごしたのです。私達が教会に来ているのは、この世の延長上の世界にではなく、イエスが主であり救い主である世界に、主と共に居ることだと気付きましょう。そうすることで、私達もそれ迄の自分とは違う自分になって生きることができます。本当に自分に必要なものは何か、無くてはならない必要なものは何かを知ることができるからです。二人の内の一人アンデレは、シモン・ペテロの兄弟で、「彼は先ず自分の兄弟シモンを見つけて」とあります。彼が先ず自分の兄弟を見つけようとしたことに、キリストに会った喜びが溢れ出ているのを感じさせられます。「見付けて」にも、知らせたいと思った彼の思いの強さを感じさせられます。彼は救い主に会い、兄弟をこの主の所に連れて行こうと思い、連れて来たのです。しかしヨハネは、彼が主に出会うことで得た喜び以上に大切な事ことを私達に教えています。それは、主がペテロに「あなたはシモン、ケファと呼ばれる」と言ったことです。主は既に彼の名を知り、彼が教会の基礎となる「ケファ」アラム語で「岩」の役目を果たす彼の役割も知っていたのです。私達も家族や友人を主の所に連れて来ましょう。主はその人の名を知り、その一人一人が主が支配する世界での役割も知っています。私達が生きている世界は主が支配する世界、主が全ての人を知り、全てを愛し、助け導いています。私達は主の世界に生きているのです。