メッセージ(大谷孝志師)
信仰は実践により生きる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年8月8日
ヤコブ2:14-22「信仰は実践により生きる」 牧師 大谷 孝志

 信仰とは何でしょう。イエスが自分の救い主、主、キリストと信じることか。それだけではない。ギリシア語で信仰はピスティスですが、これには信実、誠実という意味がある。主イエス・キリストに信実に、誠実に生きることが信仰。ヤコブは「自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら」と言う。彼は、その人に「信仰があっても」と言ってはいない。人が救われるのは<信仰によるのか行いによるのか>を問題にしているのではないから。彼は信徒に、<あなたの信仰が本物かどうかを考えてみよ>と問い掛けている。自分は信徒との自覚を持つ人は誰でも信仰を持っている筈。「あなたは主イエスを信じていますか」と聞かれて「信じていません」と答える信徒はいない。しかし「あなたは本当に信じていますか」と聞かれると「本当に信じていますよ」と言い切れない自分を感じる信徒は意外に多いのでは無いかと思う。もし言い切れなければ、本音と建て前が違うことになり、その人の信仰は本物と言えるか。もしそうであれば、未信者は主イエスを信じたいとは思わないかも知れない。しかしヤコブは、信徒の信仰がそうだとしたら証にならないと責めたり、非難しているのではないのは勿論の事。

 ヤコブは主イエスを愛し、信徒を、そして世の人々を愛している。だから、信徒に自分は心から主イエスを信じていると言い切れる信仰を持って欲しいと願い、この手紙を書いていると私は思う。とは言え、自分の信仰が本物かどうかを自分で判断するのはとても難しい。神を、主イエスを本当に信じているかどうかは。自分でも分からないのだから、他人から見たらなお分からない。しかし、人が相手になると、分かり易くなる。彼は「兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人に『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい』と言っても、体に必要なものを与えなければ何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いを伴わないなら、それだけでは死んだものです」と言う。彼は2章2,3節で、自分の価値基準や外見で人を判断してはいけないと教えた。また、この手紙の底に流れているのは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というマルコ12:31の主の言葉。彼は、人は神の憐れみによって生かされているのだから、体に必要な物が欠けている人を見たら、主のようにその人を憐れみなさいと教える。彼は行えと教える。

人は言葉だけで満足してしまうことがあるから。自分は相手にこれだけの事を言ってあげたから、後はその人の責任だと考えてしまうことがある。確かに人は、相手の心の領域には入っていけない。相手の主体性を尊重、配慮することは大切。しかし問題はそれが自己防衛になる場合があること。本当の信仰は「自分の事は自分でしなさい」と相手を突き放すことではなく、相手を受け容れ、相手に必要な物を与えることと彼は教える。つまり信仰とは自己犠牲を恐れず、相手に仕えること。彼は「信仰は実践で生きたものになる」と教える。彼は信徒としての相応しい行いをしなければ救われないと言うのではない。本当の信仰者であれば、その人の生き方は主イエスのような生き方に変わる。何故なら、主イエスを信じるなら、主はその人に自分と同じ生き方をさせる方だからと教える。どんな事でも示されたみ言葉を主の命令として実行するのが信仰。自分の力に頼る必要も、自分の力を諦める必要もない。彼が言う行いは主がせよと言い、主がさせる行為。彼は「信仰が実践で生きたものになる」恵みを味わう者になろうと勧めている。