メッセージ(大谷孝志師)

生と死を超えて願う
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年8月15日
聖書 ピリピ1:12-26「生と死を超えて願う」  大谷孝志牧師

 ピリピ教会の人達に宛てたこの手紙には、投獄されたパウロのことを心から心配している人々への暖かい配慮が満ちています。パウロが逮捕、投獄され、ローマ当局がその運命を決するのを待つことは、彼らの信仰にとっても大きな試練だったからです。ですから、自分の投獄により起きた事が、返って福音の前身に役立ったと知って欲しいと言います。彼が先ず恵みについて知らせるのは、教会は神のものかどうかを疑い始めた人々がこの教会の中にもいたからです。福音を伝えれば彼のように逮捕投獄されるのなら、自分達の身はどうなるのか、主を信じることは自分にとって本当に役に立つ良い事なのだろうかと考える人々がいたのです。信仰生活は順調な時は問題が起きないのですが、試練に直面すると、堅く立っていられない弱さが露呈され易いからです。と言うのは、苦しみや不正、例え死であろうとも、意味を見出せれば人は耐え忍べるのですが、意味を見出せないと、これ以上信仰者でいることに耐えられなくなる弱さを信徒であっても持っているからです。ですから彼は、監禁は福音の前身に役立っていると、彼らに先ず喜びを伝えます。

 不安や疑念の強さを知っているからこそ、パウロは、それが自分の思い込みでないことを、自分が獄にいることが、主キリストの福音の為だということがローマの親衛隊全員に明らかになったという驚くべき事実により彼らに伝えます。理由は書いてはありませんが、彼らが主の証人に相応しい彼の言動を見聞きしたからでしょう。次に、この地域の信徒達が、彼の投獄によって、主にあって確信を与えられ、恐れることなく福音を語るようになったと知らせます。彼が投獄されても元気だから、自分達も脅威を感ぜずに伝道できると思ったからではありません。投獄は刑罰です。そして監禁は自由を束縛されることです。しかし彼を通して、そのような苦しみが有る所にも主が共にいると知らされ、彼らが主にあって、つまり御霊により知らされ、どんな状況の中でも主が共にいると信じる者に、霊的に変えられたからなのです。

 しかし教会の中には、パウロの福音宣教の働きの素晴らしさに、自分達の領分が荒らされたと考える人達がいたようなのです。教会の中には様々な考えを持つ人々が共存しています。それは、神は全ての人に福音を伝える為に様々な立場、考えの人を用いるからです。しかし、そこにマイナスの要素もあります。人なら誰もが持つ弱さから競争心が生じる場合があるからです。しかし彼は、その人々が純粋な動機でなく、自分の立場を守る為に彼を苦しめようとしていたとしても、その人達を敵視せず、彼らがキリストを宣べ伝えていることだけを見て喜んでいると言います。そう言えるのは、彼が思いをキリストと福音に集中しているからです。パウロは彼らの悪意を感じ取っています。でも、喜んでいます。憤慨も落胆もしません。鎖に繋がれているのはどう考えても苦しいことです。獄の中でも、彼の心に喜びが湧き上がっています。自分のこの状況が、福音の前進に役立っていることが明らかになっているからです。彼らの行為も主の御手の内にある事と彼は知るからです。

 パウロは、投獄という困難な状況の中で起きている事実を喜んでいます。そして今迄だけでなく、今後起きる事についても喜ぶと言います。その理由は二つあります。一つはこの教会の人々の自分への祈りが献げられていると知っているからです。もう一つは御霊の支えがあるからです。教会の人々の祈りと御霊の支えにより、人間的にはどう見え、どう思おうとも、今起きている事が、結局は自分の救いとなると分かるからです。確かに、獄中生活は外の生活より遙かに厳しいものです。親衛隊の人々にイエス・キリストの福音が理解され、この地域の信徒達が益々大胆にみ言葉を語るようになったとは言え、妬みや争いから福音を宣べ伝える人々もいて、全てを感謝できる状態ではありません。しかし、彼はこの状況の中でも希望を持ち続けています。彼はしっかりと、復活し共にいるキリストに目を注いでいるからです。彼は、私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今も大胆に福音を伝え、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められることと言います。この手紙は、獄中で死をも覚悟しなければならなかったかも知れないことを暗示していますが、彼は生と死を超越しています。どちらにしても自分が生きていることに変わりは無いからではありません。自分が生きることを選択したから生きているのではなく、主に生かされているから生きているからです。自分も人だから必ず死ぬ時が来ます。しかし自分の人生は主のものと知る彼にとって、死は終わりではありません。。主にこの世での労苦を解かれ、この世で生じる様々な問題に煩わされることなく、主と共に生きる者となれるからです。死の方が遙かに望ましいから、死ぬことは益と言います。

 でも彼が「肉体において生きることが続くなら」と言うのは何故でしょう。生と死は主が決めることで、人が決めることではないからです。彼は、自分が生きて来たのは神に目的があるからだと知っています。主が彼を、肉体において生きて来させたのは、彼に、主の証人として福音を伝え、人々が救われる為の働きをさせる為です。それは、主が十字架への道を歩んだように、自分の十字架を負って、主キリストに従って生きることです。だから「私にとって生きることはキリスト」と言います。彼が肉体に於いて生き続けるなら、自分の働きによって多くの人々が救われ、この教会の人々と喜びを共にできることを、彼はこれ迄の経験から知っています。彼が生きることは、この教会の人々の為にはもっと必要なのです。ですから彼は、生と死の「どちらを選んだら良いか、私には分かりません」と言います。彼は「はるかに望ましいこと」と「もっと必要」なことの間で板挟みになっていると言います。

 彼はこの手紙を書く中で、彼らの信仰の前進と喜びの為に、自分が生きながらえ、彼らと共にいることが御旨と主に知らされたのでしょう。彼は獄中にいながら、「再びあなたがたのもとに行けるので」と言います。自分とこの教会の人々の将来を確信しているのです。この主が共に居ることを信じましょう。主は私達に彼のような「生と死を超えた」信仰と生き方を求めていると知りましょう。主は、今この世に私達と共に生きている人々が、一人でも多く主イエスを信じて救われ、ご自分と共に生きる者となるのを望むからです。