メッセージ(大谷孝志師)
諸行無常ではない世界
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年8月15日
ヘブル13:5-8「諸行無常ではない世界」 牧師 大谷 孝志

 人はふと立ち止まり、過去を振り返ってみる時、自分の変化に驚くことが有る。前はもっと生き生きしていた、前はもっと明るかったとか。逆に、もっと暗かった、無気力だったと感じたことは無いか。子供の頃、青年の頃、社会人として仕事をしている頃、年金生活に入る頃のことを考えると、自分や相手に対する見方は大きく違うのではないか。また、結婚して自分や相手の性格が大きく変わったと感じている人がいるかも知れない。変化は人生の節目毎に現れてくる。また、人の気持ちはその時々、環境によっても大きく変わってしまうもの。若い頃はどうしても許せなかった過ちが、歳を重ねると、長い目で見られるようになったり、許せるようになることもある。もちろん、人や時代によっては、許されることと許されないことに違いがあるのも確か。「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と平家物語にある。この世のものに変わらないものは確かに何一つない。「動かざること山の如し」と言うが、山だけでなく大陸も非常にゆっくりだが動いている。

 また、人の心や性格だけでなく、会社が倒産したり、リストラされたり、事故や病気になったりして、突然人生が変わってしまうこともある。聖書は、そのような世の中にあって、変わらないものがあると教えている。「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」と。主イエスを信じて救われるなら、変わり易いこの世の中にあって、その変化に翻弄されることなく、安心して生きることができる。聖書はその信仰が全ての人に必要だと教えている。

 人は変わり易いものに頼るから、悲しさ、辛さ、わびしさ、空しさを味わう。人を頼る者は人に裏切られ、金に頼る者は金に裏切られる。しかし、分かっていても、裏切られても、頼り続けるのが人間と言える。人は誰でも何かに頼らなければ生きていけないから。主イエスを信じていても、何かに頼る誘惑に負けてしまうことがある。人に会うことや仕事や勉強の方が大切になってしまうことがある。だから主は「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と命じる。悪の力は、主から、主を信じる者の群れから私達を引き離し、自分の方に引き寄せようと働き掛けてくる。優しく「こっちの水は甘いよ」。「こちらの方が安心できる、楽だよ、将来があるよ」と。

 しかし「主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われた」と今日の聖書は教える。イエスは主、助け主、慰め主、癒し主。健康も仕事も勉強も全て委ねることができる方。そして、私達が委ねることを喜んで下さる方。聖書が示す最大の罪は偶像礼拝。これは石や木で作った像だけを指すのではない。私達が主イエス以外に頼ろうとする全てのものを指す。私達が求めるべきものは「神の国と神の義」であり、私達が頼るべき方は主イエスのみ。

 聖書は「金銭を愛する生活をせず、今持っているもので満足しなさい」と教える。この世のものや変化に心を奪われると、浮き足だった人生になってしまう。「でも…」という呟きに耳を貸さないこと。それは悪の囁き。「果報は寝て待て」と言うが、私達は「果報は主を信じて待て」。牧師だからそんなのんびりしたことが言えるのではない。牧師だから、主の恵みによって生かされているから言える言葉。人は変わり、世の中も変わり、かたち有るものは壊れ行く。しかし私達も確信をもって言える。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」と。「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」と。