メッセージ(大谷孝志師)

神に従う者になる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年8月22日
聖書 エレミヤ9:10-16「神に従う者になる」  大谷孝志牧師

 旧約聖書が私達に告げる神は、人の罪に非情なまでに厳しい方です。今日の個所でもご自分の民を罰し、滅ぼすしかないと言います。しかし、これは神の呻きなのです。何故、神は人の言動を見て呻くのでしょうか。「神は…、神のかたちとして人を創造され、男と女に創造された」と創世記にあります。神は人をご自分と共に生き、語り合う者として創造しました。そして全ての生き物を治める役割を与え、エデンの園に二人を住まわせたのです。しかし、最初の人アダムとエバは神の戒めを守らず、罪を犯し、エデンの園から追放され、神から離れたものになったのです。しかし神はそのような者にする為に人を造ったのではありません。ですから人と関わりを持ち続けます。アブラハムを選び、彼と契約を結び、彼の子孫を神の民として祝福すると約束しました。神はアブラハム、イサク、ヤコブ、その民と共に居て、絶えず関わり続け、神の民として彼らを守り、導き続けたと創世記は教えています。

 そして、神はその民を大きな民とする為、ヤコブの子ヨセフを先にエジプトに遣わし、エジプト王の庇護の下多くの羊を飼えるゴセンの地に住むようにさせました。しかし、王朝が変わり、他民族の王になると、その民の力を恐れた王は彼らを奴隷とし、力を奪おうとしました。民が過酷な虐げに悲鳴を挙げると、神はご自分の叫びを聞き、モーセを選び、民を脱出させる為にエジプトに遣わしました。頑なに彼らの解放を拒み続ける王に、神は烈しい十の災いを下し、王の心を変えさせました。脱出したご自分の民に、神はシナイ山で律法を与え、民と契約を結び、その後カナンの地に導き入れました。

 エレミヤ書はそれからの民の姿を私達に教えています。民はカナンに定住すると、その地の民のバアル信仰に惹かれ、その神々に従って歩むようになったのです。神は「私が与えた律法を捨て、律法に歩まず」と言います。しかし彼らは、自分達をエジプトから導き上らせ、実り豊かな地に住まわせた自分達の神を礼拝していると思っています。神が怒り、烈しい災いをご自分の民に下すと宣言したのは、彼らが口先だけ、思い込みの信仰に陥り、彼らに都合の良いように造り上げた神を礼拝していると気付かずにいるからです。

 そして、彼らは神との契約の義務を果たさずに、自分達の権利だけを主張していました。神は先月も学んだように、民がご自分のものに立ち帰ることを望み、待ち望んでいます。その為に神はエレミヤを遣わし、御旨を知らせ、上辺だけの信仰者になった彼らの罪を厳しく指摘させたのです。15,16の神の言葉が示す厳しさに、私達は背筋が凍るものを感じさせられないでしょうか。

 神は「この民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。…剣を彼らの後ろに送り、ついに彼らを滅ぼす。」と言います。<罪を憎んで人を憎まず>という格言がありますが、神は罪を犯した人にその責任を徹底的に負わせる方です。何故なら、犯した罪にその人の生き方、考え方が現れているからです。神は全てを見抜く方です。神に言い訳は効かないことを改めて心に刻みましょう。そして襟を正し、御霊と真理で神を礼拝する者でいようではありませんか。

 旧約の神は厳しく、恐ろしい印象を受けます。でも、ここに神とエレミヤの涙溢れる思いが綴られているように、人の滅びを神は望みません。では、なぜ神は背く者に厳しい裁きを下すのでしょう。神は聖なる方、義なる方、愛なる方なので、神はご自分が創造した人がご自分と共に生きる為には、正しい者であることを求めるからです。その為に、その正しさの基準を示す律法を彼らに与えました。でも、人は神の御心に背いてしまいました。何故でしょう。人が罪を犯し、人から神への関係が断たれたからです。旧約時代の神と人の関係は、神からの一方的関わりで、神は突然人に語り掛けるか、人の姿をした御使いとしてご自身を表すだけです。人と神は遠く離れ、全く異なる存在になりました。人は神について、自分達の知恵と知識でこういう方と想像し、心に思う神を礼拝するしかありません。独り合点の信仰に陥ってしまい、これは御心と違う、神に背いていると分からなくなかったからです。

 そのような人を、神は「頑なな心のままに歩み、…バアルの神々に従って歩んだから…彼らを滅ぼす」と言います。人は、神を神として崇める知恵を確かに持ちます。でも、自分の知恵で御心はこうと悟れる者はいません。また「主の御口が自分に語られたことを告げ知らせることのできる者」と主は言いますが、聖書にも、主に直接語り掛けられた人はいるけれど、それらは特に選ばれた人々です。殆どの人はその人々から伝え聞くだけに過ません。

 私達も同様です。人の言葉として主に語り掛けられた経験を持つ人は極僅かではないでしょうか。私も経験はありますが、人にそれは思い込みではないかと言われても、証拠はないので反論できません。人類の歴史を顧みても、人が神の世界に触れることはできたことは確かです。しかしそれは、円が直線に触れる時にできる接点のようなものです。接点は点なので、位置はあっても面積はありません。同じように、人は神の国、神の語り掛けを体験をしたとしても、その出来事を所有し、人に示せません。聖書を読み、み言葉が心に響くことがありますが、自分の心の中の出来事です。同じように他の人に証明できません。人は、霊的に心の頑ななままに生きるしかないのが現実です。「頑ななまま」というと語弊があるでしょうが、自分が受けたものを、これが神の言葉、御心だと信じるものに従って歩むしかないということです。

 しかし新約聖書は、今はその分断を神が解消しているのに人が気付けないだけだと教えます。今や、御霊が私達を助け、執り成してくれます。心を鎮め、御霊の導きに自分を委ねましょう。私達は主の十字架により罪を赦され「全ての事が共に働いて益となる」世界、人と神が共に歩んだエデン園のように目には見えないが、確かにある神の国に生きる者とされているのです。神に直には会えません。声も聞けません。しかし私達は独りぼっちではなく、神が見えないけれど共にいて、私達の味方になっています。パウロはⅡコリント5:8で「そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました」と言います。私達は神の恵みに満ちた新約の世界にいます。その事を信じ、見えるものにでなく、信仰によって歩み、御霊に導かれ、神に従い、神に喜ばれる者として生きていましょう。