メッセージ(大谷孝志師)

天の父に祈る私達
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年8月29日
聖書 マタイ6:7-9「天の父に祈る私達」  大谷孝志牧師

 私達は礼拝では司会者の祈りの後、祈祷会では各自が祈った後、主の祈りをします。毎週、毎回同じ祈りをします。ですから、神に祈ると言うよりも祈り流してしまうことはないでしょうか。もし無ければ、その人は幸いです。この主の祈りは、キリスト教の大きな特徴の一つです。殆どの教会では、大人も子供も教会員も未信者の人も、だれもが同じ主の祈りをするからです。私達はプロテスタントの教会であり、1880年訳の主の祈りを使います。各教派で訳は違いますが同じ主の祈りをしています。私も子供の頃に食前に主の祈りをしていました。母が当時、キュックリッヒという婦人宣教師の家庭集会に出席していて、父と私は母の方針で主の祈りをしていました。主イエスを信じていなくても、教会行っていなくても、誰にでも神に喜ばれる祈りができ、求めることができるのは素晴らしいことではないかと私は思います。

 しかし余りにも簡単で、礼拝や集会、その他の機会で事ある毎に祈るので、主イエスを信じていても、意味を十分に考えずに祈ってしまうことはないでしょうか。私も子供の頃、これを言わなくてはご飯が食べられないから、意味は分からなかったが取り敢えず祈った、というより、ただ言っていました。

 主の祈りはマタイ6章とルカ11章の2箇所にあります。主はマタイで主の祈りを教える前に「同じ言葉をただ繰り返してはいけません」と教えています。なぜなら、祈る相手である天の父である私達の神は、私達が求める前から、私達に必要なものを知っているからと言います。それなら、何故主の祈りをして求める必要があるのでしょう。実は、「天にましますわれらの父よ」という最初の呼び掛けの言葉が、その大きな意味と理由を示しているのです。
 主の祈りは、呪文のように言葉そのものに力が秘められているのではありません。神に呼び掛け、私達の思いを伝える言葉なのです。ですから先ず、私達は主の祈りで「天にいる私達のお父さん」と父なる神に呼び掛けます。主イエスは、ゲッセマネの祈りで「アバ、父よ」と呼び掛けました。主は、私達も神にお父さんと呼び掛けて良いと教えたのです。主の祈りに限らず、祈る時には、そう神を意識しつつ祈ることが大切なのです。でも、この呼び掛けは、天にいるお父さんのような存在の神と呼び掛けているのではありません。神の家族である私達皆の天にいるお父さんと呼び掛けているのです。

 私達の神は万物の創造者、全知全能の支配者です。私達人間は全く関わりを持てない方です。主イエスは、この神に我らの父よ、と呼び掛けられると教えました。何故かと言えば。主を信じ受け入れた人は、神によって生まれた神の大切な子だからです。主が十字架に掛かって死に、私達の罪を取り除き、神に受け入れられる幸いな者、神の子とされる道を開いたからです。心から神に「天にましますわれらの父よ」と呼び掛け、主の祈りをしましょう。

 ユダヤ人は神に父よとは呼び掛けませんでした。彼らは「主の名をみだりに口にしてはならない(出エジプト20:7)」との戒めを守り、神の名のヤーウエーをアドナイと読み替えていた程、それは畏れ多いことだったからです。

 しかしイエスはユダヤ人であっても、自分と神が父と子の関係と知っていました。ですから父よと呼び掛けました。私達はユダヤ人ではありませんが、主イエスを信じ、救われた人々の教会に招かれ人は、神に神の子とされた人です。神と父と子の関係になっているので、父よと呼び掛けて良いのです。

 さて、主の祈りの前半は神についての三つの祈り、後半は私達に関する三つの祈りです。前半は神についての祈りですから、全てに御名、御国、御心と神を表す御が付いています。でも、神に祈るのだから、神について祈るのは当然とは言えません。私達は自由に祈る時、「父なる神、天の父」と呼び掛けるだけで、後は自分達の為に祈り、その祈りが聞かれるようにと主の御名によってと祈って祈り終えるのではないでしょうか。しかし主は、神に祈る時、先ず神について、神の為に祈るよう教えます。そうする時、私達の心が共にいる神に真っ直ぐ心が向かうからです。神そうを意識することによって、祈る私達自身が祈りに相応しい者になるようにと心の姿勢を正せるからです。

 次の御名を崇めさせ給えは、自分が御名を崇められるようにしてと願うのではありません。神が聖なる方と自分が自覚し、崇めることによって、全ての人が神が聖なる方と認め、神を崇め、この世が神に相応しいものになるようにとの祈りです。御国を来たらせ給えは、どこかにある神の国がこの地上に降りてくることではなく、この世が神が支配する世界であると、全ての人が知るようにしてとの祈りです。最後の御心の天になるごとく地にもなさせ給えは、天では神が自由に御心を行っていると信じますが、私達が生きるこの世では、人が罪に支配されているので、人が御心が行われるのを妨げているのです。この世を御心が自由に行われる所にして下さいとの祈りなのです。

 主は何故、このように神について、神の為に祈るよう教えたのでしょうか。その答えは主イエスの十字架と復活の出来事にあります。ヨハネ3:16に有るように、神は愛するひとり子を世に与え、「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つため」にロ-マ総督に引き渡し、全ての人の罪を取り除く為に、十字架に付けて殺させたのです。そして主は復活し、目に見えないけれど私達と共にいます。ですから、主イエスを信じるなら、誰でも救われる道が開いているのです。罪を赦され、神の子とされるからです。

しかし、私達が生きるこの世の現実はどうでしょうか。悪の力が世の人々を支配しています。御霊が十分に働けないのです。御霊に力が無いのではありません。御霊は私達の内に住み、私達を通して働くからです。私達を通して御霊が働き、悪の力に勝つ為には、「願わくは御名を崇めさせ給え、、御国を来たらせ給え、御心の天になるごとく地にもなさせ給え」と、神が神として崇められ、この世が神の支配が実感できる国となり、御心が行われる所となるよう、神の為に私達が祈り求めることが必要なのだと主は教えているのです。

 私達は全てで「させ給え」と祈ります。これは単なる祈願を表す言葉ではありません、祈った事は必ず為されなければならないとの祈りです。つまり、自分の全存在を懸けて、自分自身を注ぎ出すようにして、神の為に神に願う祈りです。これが主の祈りであることを心に刻んで、主の祈りをしましょう。