メッセージ(大谷孝志師)
キリスト者である理由
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年8月29日
IIテサロニケ2:13-17「キリスト者である理由」 牧師 大谷 孝志

 人は何故キリスト者になるのか。誰でも、突然教会に行こうとは思わないのではないか。中学生の頃、公園でテントを張って子供達を集めて紙芝居か何かを見せている人がいた。私は何か不気味な感じがして、中には入れなかった。教会に行き始めた母に勧められて、高一の時初めて教会に行った。しかし、信仰に凝り固まっている人たちにはかなりの抵抗を感じた。天地創造がいかに荒唐無稽が造り日話であるかと論争もした。しかし、彼らは真剣に相手をしてくれた。良い人達との印象を持ち、こんな生き方ができれば良いとは思った。だが漠然として思いに過ぎなかった。だから続けて行く気にはなれなかったが、二人の兄弟の働き掛けが、その壁を乗り越えさせてくれた。誘われて出た教会学校のクリスマス会と年末祈祷会で、私はキリスト者の顔の輝きと祈る姿の素晴らしさに感動した。

教会に入り込みたいとも、信じたいとも思っていたわけではない。主が私を捕らえて、そう感じさせた。だからキリスト者になれたのだと思う。父は33年前のクリスマスに救われた。父は丁稚時代に、店でしていた集会に出され、キリスト者に初めて触れて感動し、その思いを今に至るまで持っていたと帰省した時に知らされた。母も、看護学校に行く途中の教会から流れる讃美歌に心惹かれ、結婚してからも近くの家庭集会に私を負ぶって出席した。神の救いの計画は私が気付く遙か以前から始められていた。主は私を愛し、選び、手を差し伸べていた。感謝。

 私はこれまで、学校や地域の子供会行事、病気で数回は礼拝を休んだが、2週間続けて礼拝を休んだことがない。日曜の模擬テストは受けず、文化祭を出席だけ取って礼拝に出席し、礼拝後学校に戻った。私にとって礼拝は必要不可欠のものだった。人がどう見るかではなく、神に喜ばれるかどうかを第1にしていた先輩達を見ていたことと、「必要なことは」一つだけです。マリアはその良い方を選びました、それが彼女から取り上げられることはありません」との主のみ言葉が、そして「あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに煤M出せて下さいますように」とのパウロの祈り言葉が、私の心に響いていたからと思う。 主はみ言葉を持って私を養い続けてきた。様々な出来事を経験してきたが、主は必要な時に必要なものを与え続けてきたと実感している。これからも主が助けると確信している。だからキリスト者であることを止めようと思ったことは一度も無い。私がキリスト者でいられるのは、主が前向きに、あるがままを受け入れて生きられるように助けてくれているから。高い山もあれば、険しい山道もあったが、自分の知恵と力で障碍を乗り越えられたからではない。主が共にいて助けたから。勿論、誘惑に負けそうになったこともしばしばだった。しかしこれまでキリスト者として生きてこられたのは何故か。自分なりにではあるが、主に従って生きようとしてきたから。キリスト者でありたいと願いつつ生きて来たから。

 主イエスを信じていてもどうしても楽な方、好きな方へと進んでしまう弱さを持つ。正しい場合もあるが、多くの場合、神から離れる方向が多い。しかし、聖書を読み、祈れた。それが人生のレールになった。その軌道の上を走れたから、キリスト者で要らされたと思い、感謝している。これからも主に喜ばれるものでいたい。キリスト者でいたいという前向きな思いを大切にして、聖書をを読むこと、自分に語り掛けられているみ言葉を聞き取ることを大切にしながら、キリスト者としての軌道の上を、ゆっくりと確実に歩みながら、生きていきたいと思う。