メッセージ(大谷孝志師)

心を込めて主の祈りを
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年9月5日
聖書 マタイ6:9-13「心を込めて主の祈りを」  大谷孝志牧師

 先週に続き、イエスが教えた主の祈りの言葉を通して、み言葉を学びます。主の祈りの後半は自分達の為の祈りです。主は、最初に日用の糧の為に祈りなさいと教えます。。昔、CSの生徒に日用の糧の意味を聞いたら、日曜のお話と答えました。聖書に日ごとのと訳されているように日々戴く糧で、原文ではパンです。人に限らず、生物が生きる為にはエネルギーの補給が必要です。それ無しでは死にます。でも、必要なものがもう一つあると主は教えます。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とマタイ4:4にあります。人が生きる為には、糧だけでなく、神の言葉が不可欠なのです。糧だけでは他の生物と同じなのです。御言なしには人は人として神と共に生きられません。何故なら、神は人をご自分と共に生きるものとして創造したからです。神と被造物が異質なように、人は他の生物とは全く違う存在です。人には神に喜ばれる生き方をすることが求められるのです。その為に、先ず日毎の糧を求め、肉体を整えることが大事と主は教えます。

 この糧は、人が生きる為に必要だと思うもの全てを含みます。主は、私達が生きる為に必要とする全てを今日も与え給えと祈れと教えるのです。何故なら、全ては神のものだからです。神は人に必要なものを御心のままに恵みとして与え、或いは取り去りもする方です。その神の支配する世界に生きていると私達の心に刻ませる祈りなのです。人は<求めるのは人の権利、与えるのは神の義務>と考え易いのではないでしょうか。しかし神は自由な方です。御心ままに全てを行う方です。生きる為には先ず、全ての決定権を持つ神の御前にひれ伏して、必要なものを与えて下さいと神に祈れば良いのです。

 主がこのように祈れと後半の最初に教えたのは、人に自分と神のこの関係を自覚させる為です。人は神から様々なものを頂きます。でもそれは、蛇口を捻ると水が出るような機械的なものではありません。子と親の関係を考えてみましょう。子が親に求め、親が子に与えることで、親子関係が深まり、豊かになっていきます。同じように、人が神に求め、神に与えられることで、神と人の関係も深まっていきます。人は自分が神にとって我が子だと意識し、神に与えられることで、神が私の神だと、神への意識が深まっていきます。神が自分を大切な我が子と愛し、神の愛と御力により御前に生かされていると知り、心清く、正しく生きる者となる為に、主はこう祈れと教えたのです。

 後半第二でと祈りは「私たち達の負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目の有る人たちを赦します」と祈りなさいと教えます。これは、私達の主の祈りとは順序が逆です。私達は主イエスの十字架の死により救われていても、自己中心的、利己的生き方の人々の中で、同じ罪人の資質を持つ者として生きているからです。それだけでなく、自分が目には見えないが確かにある神の国に生きている者として、世の光として世の人々の中で輝く使命を与えられているからです。この世が罪の支配から、人々が罪の束縛から自由になり、神の愛と力に支配される為には、この祈りが必要だからです。

 さてこの祈り、原文は「私達の罪を私達のに対して赦して」となっています。何故私達に対してなのでしょう。私達は救われても、罪人の自分を意識してしまい、光としての自分を升の下に隠してしまう弱さを持つからです。私達が世の人々を主の光で照らす働きをするには、自分が犯した罪から解放されることが必要です。神が祈りに応えて、私達を自分の罪から解放するなら、私達は神の愛に満たされ、安心して、神の栄光で照らす世の光となれます。主はその後に「私たちも、私たちに負い目の有る人たちを赦します」と祈れと教えます。神との取引をするように、私達が相手を赦したから私達を赦してと祈るのではありません。負い目は罪と同じ意味です。でも、法律上の罪ではなく、身勝手な判断で私を裁き、苦しめることで乗せてきた重荷が罪です。それを赦せと主は教えるのです。これには、私達が相手を神の家族として認め、受け入れていることが前提になります。相手が私に犯した罪を自分が負うべき十字架として自分が負うよう主は求めるのです。自分の赦しの為に神に祈り、赦されると信じるなら、自分に対し犯した罪を赦しなさいと、主は教えます。現実には辛いし、無理としか言えないことです。。しかし、主の十字架の死によって救われた事実をもう一度思い返しましょう。この私の罪を赦す為に、主は十字架に掛かって死んで下さったのです。その主の愛の犠牲によって、今の私が神の恵みを豊かに戴き、平安に日々を過ごせていることを思うなら、私達には可能だと気付けます。私達は「主の御前にひれ伏す」と簡単に言う時がありますが、この言葉は、私達がこれまでの生き方、価値観、世界観を全て打ち捨てて、主にひれ伏すことを意味します。それが、私達は共に神の民として愛し合い、支え合い、励まし合って、共に生きることができているのだと知りましょう。そういう私達の教会になりましょう。

 最後に主は「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい」と祈れと弟子達に教えました。試みは試練でなく誘惑です。人は様々な衝動から自分の欲望を満たそうとし、悪の誘惑に陥ってしまいます。それは快感の時も有りますが、一時的なもので殆どの場合、深い自己嫌悪に襲われ、闇の中に引き込まれる経験をします。ヤコブは1:13で「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑されることはありません」と言います。誘惑に負けたとき、神のせいにしてはいけないからです。神は真実な方で、人を愛しているから、危険な方向に引きずり込む誘惑はしません。悪が人を神から引きはそうと、自分の虜にするのです。誘惑に墜ちるのは人の責任です。人は自由なので、自由を肉の働く機会とする弱さを誰もが持つからです。しかし神は、そのような人を放置せず、救う方です。ペテロのように「主よ助けて」と叫べば良いのです。主は「信仰の薄い者よ」と言い、助けてくれます。この祈りは文字通り、誘惑に遭わせないでとの祈りです。自分の弱さを素直に認め、神にできない事は何もないと信じ。見えなくてもいる神に目を注ぎ、求めましょう。主は私達が神に喜ばれる者となる為に主の祈りを教えました。心を込めて主の祈りをしましょう、神は喜んで私達の祈りに応えてくれます。