メッセージ(大谷孝志師)

友に主を紹介しよう
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年9月12日
聖書 ヨハネ1:43-51「友に主を紹介しよう」  大谷孝志牧師

 今日の説教の準備をしながら、今の自分に主イエスを紹介したくなる友がいないことにハッとしました。若い頃は、何人かの友人を教会に誘いました。教会に誘うと、お前が信じているのは勝手だけど、教会がそんなに良い所だとは思えないし、行く気はないから誘わないでと言われたこともありました。でも、教会のこと、主イエスのことを知って欲しいと熱心に誘うと、何人かが「まあ、行ってみようか」と教会に来てくれました。しかし牧師になってからは正直、あまり人を教会に誘っていません。誘える程親しい友人がいないからと気付きました。今の私は、教会に来た人が続けて礼拝に出られるように配慮し、関わるのが精一杯だからかもと、自分に言い訳をしています。

 今日の個所は、主イエスの弟子になるには二つの道があると教えています。 主が、ユダヤのエルサレム近くのベタニアから、サマリを挟んだ北にあるガリラヤに行こうとした時のことです。主はガリラヤ湖北岸の町ベツサイダ出身のピリポを「見つけて」とあります。この「見つけて」は「捜し出す」との意味も持つ言葉です。主は彼を探したのです。そして見つけて「私に従って来なさい」と彼に言いました。そして、彼は主イエスを聖書に記されているメシアと信じ、従いました。この後の彼の行動がそれを物語っています。何故彼が信じられたかは記されていません。でも、人は何らかの時に主の臨在を知り、主を信じ、主に従って来ているのではないでしょうか。でも実は、主の方で彼を捜し求め、見出し、従うことを求めたのです。私が主を信じて救われたのも、主が見つけ出したからです。「従って来なさい」と言われたのではありませんが、主イエスこそ、従うべき方と信じ、今に至っています。

 主イエスの弟子となるもう一つの道は、人を通しての主との出会いです。ピリポも主イエスと同じように「ナタナエルを見つけて言った」とあります。彼はキリストに会ったことにより、自分が大きく変えられたのです。その喜びを友に伝え、自分と同じ喜びを感じて欲しいと思ったのです。ナタナエルはキリストがナザレ人と彼に聞いて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言います。私が誘った友人の反応に似ています。ピリポも諦めませんでした。「来て、みなさい」と誘い続けます。そして、友は付いて行きます。

 私は、このピリポの言葉に主イエスと出会った時の感動がよみがえりました。もう一度キリスト者の原点に立ち帰り、教会に誘いたくなるような友人を見つけ出そうと思わされました。11教会・伝道所と赴任地を転々として来から友人ができなかったと諦めずに、出会いを求めていこう、この人に福音を伝えたいと思う友が与えられるように主に求めていこう、と思いました。キリスト者としての再出発を目指して行こうと願う思いにさせられたのです。

 さて、友の言葉は信じられないけれど、行ってみようかと友に連れられて来たナタナエルを見た主は、彼に「まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」と言ったのです。主は、ピリポに誘われてご自分の所にくる前から、ナタナエルの存在を、彼がどんな人かを既に知っていたからです。

 私達の中には、自分が信じる主イエスの素晴らしさを知って欲しいと思い、主イエスを紹介したいと思う人がいるかと思います。でも私達が信じ、従っている主イエス・キリストは、その人がどんな人かを既に知っています。主はその人をご自分の所に来るよう招いています。しかしピリポに連れて来られなければ、友は主に会えなかったのです。ここに私達による伝道が必要な理由があります。私も教会に来る前から主に知られていました。主は、既に信じた人達を用いて、ご自分を紹介させ、教会に誘わせたのです。私はCSのクリスマス会に誘われ、高校の冬期補習講習もそこそこに駆けつけ、年末祈祷会に行く途中の先輩に一緒に行こうと誘われて行き、それぞれに大きな衝撃を受け、自分が求めているものがそこに有ると知りました。そして今牧師をしています。主はナタナエルの内実を知るように私をも知っていたのです。

 ヘブル4:12に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」とあります。正に主イエスは、この福音書1:14にあるように、人となって世に来た「神のことば」です。ナタナエルは主の言葉を聞き、驚愕し「あなたは神の子、イスラエルの王」と言います。私達も二千年前に十字架に掛かって死に、三日目に復活した主イエスが私と共にいるという驚くべき事実を知りました。物理的には証明できない事実です。しかし私達は、それが事実であると知りました。それを受け入れ、主イエス・キリストを私達の救い主と信じて、この教会の一員として今に至ります。

 主は彼に「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのか」と言いました。私達は信仰生活の中で確かに不思議な経験をしています。主が私を、私達を守り導き、道を整え、祈りを聞き、恵みを与えて下さったと主に感謝した事が何度もあると思います。しかしその事実に根を下ろしているでしょうか。時が過ぎると忘れたりしていないでしょうか。主は「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを見ることになる」と彼に言います。この世の常識では考えられない出来事を見ると彼に言ったのです。彼は人間イエスに会い、神が主に与えた不思議な力を経験しました。でもそれは、彼がこの世で得た経験、知識で納得できる事、あり得るだろうと思う範囲の出来事だったのです。ですから時と共に薄まり、ぼやけていくと主は知っていたのです。ですから父なる神が定めている時が来て、彼を含め人が、主イエスが神の御子であり、神である霊的事実を見る時が来ると言ったのです。霊的にそれ迄と違う新しい人に変えられ、この世が神の国となり、神が全てを御心のままに行う時が来ると約束したのです。

 私達は友を教会に誘い、主イエスをその人に紹介したいと思っています。でもそれは、相手が経験したことのない未知の世界、霊的世界、神が支配する世界にその人を招くことです。ピリポは主イエスに会い、神が支配する世界に生きている喜びが心に溢れたから、友を見つけ出して伝えました。主は共にいます。私達も主に初めて会い、心が喜びに溢れた時のことを思い起こし、この主を紹介したいと思う友を見つけ出し、友に主を紹介しましょう。