メッセージ(大谷孝志師)
今は人を信じ切れる時
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年9月12日
ローマ3:21-26「今は人を信じ切れる時」 牧師 大谷 孝志

 「人にとって最も大きな財産は信用だ」と或る人が言った。紙のお金でものを売り買いできるのも、金融機関にお金を預けられるのも、信用があるから。お金だけではない。信用は心も豊かにする。信じられる人がいる、人に信じられていると判ると心が暖かくなる。逆に人を信じられず疑がうと、心が冷たく醜くなる。

 主イエスは人を疑わない。徹底して相手を受け容れている。だから弟子達も主イエスを信じて、安心して主に従ったのだと思う。私達も主を信じている。でも心から安心して主に従っているか。弟子達は、主が逮捕されると見捨てて、蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、主の十字架の死を見届けた人達の中に弟子達の名は無い。何故か。イエスを主、キリストと信じ切れず、本音では、主イエスをただの人としか見ていなかったから。私達も主を信じ、従っていても、主がいつも共にいて、私達を助け導き、恵みと平安を与えていると信じているか。自分の思いと違う事態に直面したり、思い掛けない相手の言葉や態度に動揺し、落ち込むことはないか。主を信じ、救われ、新しい人になっているのに、古い自分を捨て切れていないので、主イエスの愛と力を信じ切れない自分が表に出てきてしまう。パウロは「すべての人は罪を犯して神の栄光を受けることが出来ず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです」と言う。主イエスが十字架に掛かって死に、復活して、目には見えないけれども、今この世に生きているので、その事を信じる者は、福音書が伝える主イエスのように、人を疑わずに、徹底して、安心して相手を受け容れ、共に生きられる。

 人が真の神を信ぜず、神ならぬものを神とし、自分中心、利己的生き方をしていたのを、神は忍耐をもって見逃してきた。だから人が人を信じられず、人のことより、自分の事を最優先にしてきた。それでも何でもない、他人が傷つこうが、傷付けようが仕方のない、正に他人事として諦めていた。しかし、神は人をそのような生き方をさせる為に造ったのではない。人が義なる者として生きる為に人を造った。だから人が義なる者としてこの世に生きる者とする為に、神は御子を世に与え、御子イエスを信じる者を義と認めている。神を愛し、隣人を自分自身のように愛する知恵と力を与えている。主イエスを信じるなら、、誰でも相手を信じ切ることが出来る新しい時の中に、私達は今生きている。エペソ1:22,23で「神はすべのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのもの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」と言う。私達は主イエスの力がみなぎる新しい時の中に生きている。この信仰は「鰯の頭も信心から」というような信仰ではない。主イエスを信じるなら、全ての事が相働いて益となる世界に、世の全ての事、全ての人を主に委ねられる世界に生きている。

 自分にはそんな信仰は無いし、委ねられないと言う人もいる。主はピリポに言った「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。自分に与えられた恵みを思い起こせば良い。主は共にいて、知恵と力を与え、道を示し、歩ませている。主は今も共に生きている。その主を信じよう。そうすれば互いに心から信じ合える。神は私達を義と認めている。それは義とされている事。それは主の恵みを数えられる人、自分に注がれている主の愛と力が分かる人ということ。主を信じ切って生きよう。主は真実で頼れる方だから。