メッセージ(大谷孝志師)
赦すって難しい
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年9月19日
マタイ18:23-30「赦すって難しい」 牧師 大谷 孝志

 私達は、他人が他人に対して犯した罪の場合「それくらいは赦してあげたら」と言える。しかし、自分に対して人が、それもクリスチャンが罪を犯したとなると、のんびりと受け止められない。それが度重なると、ペテロのように「何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」と、主に聞きたくなるのでは無いか。しかし主は、ルカ17:4で「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところのに来て「悔い改めます」と言うなら、赦しなさい」と言う。これは、当時の律法学者が三度は赦しなさいと教えていたのに対し、そこまで寛大な気持ちで赦せとの主の教え。ペテロは何か事情があり、その余りにも寛大な主の教えを確認したくなったのかも知れない。しかし、イエスが七回と言ったのは回数を定めたのではない。幾度でも、限りなくという意味。昔、「この罪は赦されるか」をテーマにした「491」というスウェーデン映画があった。主は彼の問いに答えて、「七回を七十倍するまで」490回は赦せと教えた。無限大に近い回数。映画「491」は「どんな罪でも赦されると聖書は教えるが、赦されない罪はないのか」をテーマにした映画で、主イエスの言葉の真意を自分なりに見極めようとした映画と言える。それ程、人間にとって相手の罪を赦すことはとても難しい。
 人にとって自分に害を与えた相手を赦すことは難しい。しかし赦せないことで人間関係が壊れ、自分の平安な生活が失われることがあるのも事実。だから、赦せないと思う相手の罪を赦せるなら、人は相手と共に生きる喜びを味わい、人としての幸いな人生を得られる。この事を弟子達に教える為にこの譬え話をした。
 ここに出てくる百デナリは当時の労働者の約四ヶ月分の賃金に当たり、それでもかなりの額。仲間に返せと強引に迫ったのは当然。しかし彼は一万タラント、円に換算すると三千六百億円という個人の借金としては途方もない額を王に借りていた。しかし、彼がひれ伏して懇願すると、王は赦し負債を免除した。ところが彼は、自分に百デナリの負債がある仲間に会った時、それを忘れている、、相手を許せず牢にぶち込む。主はこの譬えで、これが私達人間の生の姿と教えている。
  主は、この譬えで「人は神から、一万タラントに相当する自分では贖えない大きな罪を赦して頂いていることを知るなら、相手の罪を何処までも赦すことができる」と教える。私達は生きている限り、様々な人と付き合わなくてはならない。この人がいなかったらと思う人、自分に重荷を被せる人がいるかも知れない。この譬えで、相手の存在が許せない、受け入れられない、そう感じさせるものが人間関係を壊す原因と教える。赦せないのは人が神に赦されているのを忘れているからと主は教える。主イエスの十字架を仰ぎ見よう。私達は御霊に導かれ、神の赦しと癒しを自分の内に感じつつ神に祈れる。神が私達をあるがままで受け入れてくれているから。主はあなたの隣人を自分自身のように愛しなさいと言う。
 相手を自分の思いで見るのではなく、主がこの人をどう見ているかを、何より、私自身をどう見ているかを謙虚に思い、相手を主の前に突き出すのでなく、共に主の御前に出よう。そうすれば、相手を心から赦せる。どこまでも赦すことが出来、相手と安心して友達同士として生きられる、と主はこの譬え話で教える。
 最後に主は、相手を赦せなければ、神は牢にぶち込まれた人のようにすると教える。主は私達の全て見、全てを知る。私達はその主に生かされ、このキリストの体である教会に招かれ、その一員となっていることを心に刻んでいよと教える。