メッセージ(大谷孝志師)

主こそ真の生ける神
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年9月26日
聖書 エレミヤ10:1-10「主こそ真の生ける神」  大谷孝志牧師

 旧約聖書を通して御言葉を学ぶ時、偶像の問題は避けることが出来ません。出エジプト記20章に、自分の為に偶像を造ってはならない。いかなるかたちも造ってはならず、それを拝み、仕えてはならないとあります。日本にも仏像等、ご神体と呼ぶ像が数多くあります。今日の聖書にはイスラエルの神、主がエレミヤに、自分の民にこう語れと命じた言葉が記されいてます。主は諸国の人々が偶像礼拝をしているのを知っています。主は、彼らに倣うな、彼らの慣わしは空しいからと言います。そして偶像は「畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないから」と教えよと命じます。

 日本でも仏像を建立した時に、入魂式、或いは開眼供養をします。木や金属で造られた像がそのまま神仏ではないからです。昔、大魔神という映画がありました。大きな像が動いて大暴れする映画でしたが、神社仏閣の石像や木像がそのまま動くと信じる人は今の世には殆どいないと思います。つまりそのままではかかしのようなものと判っているから、その中に目に見えない礼拝の対象となる魂に入ってもらう儀式をするのです。その結果、動けず、運ばれなければ移動できないそれらの像が礼拝の対象となるのです。人々はそれらの像に手を合わせますが、その木石にではなく、自分達に力を持つ見えない存在がその像に宿っていると思うから、像に手を合わせているのです。

 主は「諸国の道を見習うな、天のしるしにうろたえるな」と民に告げよと命じました。自分達や世に異常な事が起きると、人々が偶像に宿る神的存在が害になる事や益になる事をしたからと思い込み、その神を崇めるからです。主はご自分の民が偶像を礼拝することを許しません。私はねたみの神なので、偶像を拝み仕える者を私は憎み、その咎を子々孫々に及ぼすと主は言います。勿論、主は偶像が無力で恐れる必要がないのを知っています。ですから主は、諸国民が偶像を神として拝むこと自体で怒りに燃えるのではありません。偶像がいかに荘厳華麗に造られていても、それは物に過ぎません。人々がその偶像に宿る目に見えない神的存在に意思と力があると信じ、それを拝し、仕えるからです。主は自分以外のものにそうすることに怒りを発するのです。
 エレミヤは主に「主よ、あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方、あなたの御名は力ある大いなるものです」と言います。しかしそれは、直接主の言葉を聞き、主が御手を伸ばし、自分の口に触れた彼だから言えたのです。彼は主をはっきりと知っています。しかし私達は違います。神ご自身がご自分を示さない限り、人は生ける神、とこしえの王である真の神を知ることは出来ません。真の神は分からない、けれども神に頼りたいと思うのが人なのです。物は目に見えるので、自分が経験した事をその神がした、その神に願えば願いが叶えられると信じて、その神に頼りたくなるからです。
 ですから、日本人は、誕生時は神社、結婚式はキリスト教、葬儀は寺で平気で行えます。日本人の宗教心はおおらかと言えますか無節操とも言えます。
 ですから、行きたい時に神社仏閣に行き、利用したい時に利用します。神と人が人格関係で密接に結び付いていないからです。私達は違います。主は生きて、自分達といつも共にいると信じます。毎週きちんと主を礼拝することを大切にしています。ある先生は、礼拝欠席は罪で、咎として神に罰せられる、と教えたそうです。私は伝道者になる決心をする前も、礼拝は決して休みませんでした。日曜の大学入試の模擬テストも受けなかったし、文化祭も出席だけ取ってから、礼拝に出、その後、高校に戻りました。礼拝に出るのはキリスト者として当然の事で、出ないことは考えられなかったからです。

 さて神は、イスラエルに諸国の道を見習うな、偶像礼拝をするなと言いました。民がカナンに定着し、先住の人々と交わる中で、彼らの偶像礼拝に親近感を持ってしまったからです。勿論、木で作られ、金銀で飾れた物に過ぎないとは知っていました。しかし先住の人々と一緒に生きる中で、彼らの信仰心に惹かれ、同じようにすることで安心感を得ようとしてしまったのです。
 私達も、自分が信じる神仏を礼拝することは正しいとする人々が大多数の社会に生きています。無意識に「長いものには巻かれろ」と、どんな宗教でも認め合う方が良いとする信仰に納得してしまうこともあるのではないでしょうか。しかし、イスラム教徒を始め諸宗教の信者は他宗教に迎合しません。私達も他の宗教の礼拝に出てみようとは思わない筈です。礼拝や集会に出ている時に、他の神のことを考えることもない筈です。でも、日常生活の中で、主と私がしっかり結び付いているでしょうか。静かに自分の日常生活を顧みましょう。Ⅱコリ15:58でパウロは「堅く立って動かされず、いつも主のわざに励みなさい」と言います。強風に波立つ湖の上を歩いて主の方に向かったペテロが強風を見て怖くなり、沈み掛けたように、主以外のものを見て、それに心を奪われたことはないでしょうか。神は何故、自分以外のものを神として礼拝する者に怒りを発するのでしょう。それは単なる妬み、嫉妬ではありません。私も、真の神から目を離し、神の愛と守りの世界から不安と恐怖、絶望の世界に沈んでしまった経験をしたことがありました。人は弱いのです。

 ペテロは沈み、溺れそうになった時、主に助けを求めました。主は直ぐに手を伸ばし、彼を掴んで言いました。「信仰の薄い者よ、何故疑ったのか」と。「そして二人が舟に乗り込むと、風は止んだ」とあります。主は溺れかけたペテロの所に来て、彼の手を掴んだのです。今の私達はこの主が全てを支配する世界、新約の世界に生きているのです。エレミヤが「主は真の神、生ける神、とこしえの王」と言う十字架と復活の主イエスが、私達と今も共にいて、助け導く時に生きているのです。感謝し、真の神、主を礼拝しましょう。主は偶像のように「害になることも益になることもしない」方ではありません。助けを求めれば、主は、ペテロにしたように手を掴んでくれます。この世に生きる私達の内に御力によって関わり、働く方です。私達が願う事、思う事の全てを遙かに超えて叶えることが出来る方です。不思議に思うかも知れません。でも、私達は信じる主イエスは、十字架に掛かって死に、三日目に復活し、今も生きている真の神です。その主のみを拝し、仕えましょう。