メッセージ(大谷孝志師)

私達の手伝いを求める主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年10月3日
聖書 マルコ6:30-42「私達の手伝いを求める主」  大谷孝志牧師

 30節の使徒達とは、主イエスに二人ずつ遣わされた12人の弟子のことです。彼らは出て行って、人々に悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒すという素晴らしい働きをして来たのです。主が「どこででも」と言い、「受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら」と言ったように、かなりの期間それも厳しい状況の中での働きだったと考えられます。彼らはその使命を果たし、イエスの許に来て、自分達がした事、教えた事を残らず報告しました。彼らは福音を実践して来ました。福音を伝えることは、彼らのように福音を実践し、福音に生きることと教えられます。宣教は大変なことです。でも、主の命に従うなら、誰にでもでき、豊かな実りを体験できると、教えられます。とは言え、10,11節にあったように、それは厳しい働きした。ですから、彼らを見た主は、その労苦をねぎらい、寂しい所に行き、暫くゆっくり休みなさいと言ったのです。

 さて多くの人々が主の一行が出て行くのに気付きました。人々は主の一行が行くであろう所に向かったのです。そして彼らより先に着いてしまいます。聖書はここで、世にはこのように福音を必要とし、それを真剣に求める多くの人々がいると私達に教えます。主は舟から上がって、大勢の群衆をご覧になりました。彼らは飼う者のない羊の群れのようだったのです。羊飼いがいれば、羊はその声に従い、水や草場、柵の中に導かれ、飢え渇くことなく、安全です。しかし、いなければ先頭に立つ羊の後を追って、右往左往するだけです。飢え渇き、安心出来ません。主は人々がその羊のように、飢え渇いていて、自分達が何をどう求めて良いか分からず、不安や恐れから自由になれないその人々の心を知り、深く憐れんだのです。人々が主の所に来たのは、教えを求めたからです。「徒歩で駆けつけ」とあることにも、彼らの必死な思いが滲み出ています。彼らも会堂で自分達の神を礼拝してはいたでしょう。でも、現実の生活の中で、どうしても満たされないものを感じていたのです。

 では、私達の周囲の人々を、今も生きている主はどう見ているでしょう。私達は主の眼差しを無視していないでしょうか。考えないようにしていないでしょうか。私自身が考えさせられました。主は目の前にいる人々に多くの事を教え始めました。人々の悩み苦しみがいかに大きいかを見抜いたからです。私達は自分の周囲の人々にそんな必死さ、欠乏感を感じ取っているでしょうか。聖書は、主がこの人々を深く温かい眼差しで見ていたことを知らせることで、教会の人が必要とするものの内容や変化を敏感に感じ取るけれど、同じように世の人々が必要とするものが何かに注意を払っていないのではないかと私達に問い掛けています。弟子達がそうだったのです。彼らは遅い時間になったので、人々を解散させるよう主に言いました。人々が自分達で何とかすれば良い、それしかないと思ったからです。しかし、主は弟子達が何とかしなさいと命じたのです。人々の救いの為に遣わし、帰って来た彼らに休みなさいと言った主が、今度は彼らの必要に応えなさいと命じたのです。

 弟子達にとって「あなたがたが、あの人達に食べるものをあげなさい」は、思いも掛けない命令だったでしょう。疲れ果てて返った自分達です。漸く休めると思っていたのに、主が大群衆を深く憐れみ、教え始めたので休めなくなったばかりか、自分達で彼らに食べ物を上げなさいと主が命じたのです。つまり、人々の重荷を自分達の重荷として引き受けなさい、言い換えるなら、この世で重荷を負って歩んでいる人々の重荷をあなたがたが負いなさいと主が命じたのです。今この教会にいる私達にも同じように、主は命じています。

 弟子達は、自分達の能力と負わされる重荷を比べ、とても出来ないと言います。福音宣教は教会の、そして信徒である私達の使命だとは知っています。しかし気力体力時間を要する務めです。自分を見て、力は弱く小さい自分は、自分自身や家族等のことだけで精一杯と思ってしまうのではないでしょうか。しかし、宣教は私という人間の業ではないということも知っている筈です。最初から最後まで主の業なのです。昇天前に主は言いました。「あなたがたの上に聖霊が臨むとき、あなたがたは力を受けます。…主の証人となります」。聖霊が知恵と力を与え、私達にさせる働きが宣教です。主は彼らに出来るから、自分達で彼らに必要な物を与えなさいと言ったのです。彼らは二百デナリ、二百万円分のパンを買って来て彼らに食べさせるのですかと主に聞きます。しかし、彼らは群衆が必要とするだけものを持っているのです。ですから主は「パンは幾つありますか。行って見て来なさい」と、自分達の持ち物を確かめさせました。彼らは福音宣教の働きをして主の許に帰って来ました。彼らは、そこで自分達を遣した主の力によって出来た豊かな恵みを味わったのです。しかし彼らは、その時に経験した事と大群衆にしなさいと主が命じた事が重ならなかったのです。私達も、自分の人生でこれ迄に多くの恵みを味わっている筈です。その恵みを思い起こし、心に刻み直してみましょう。

 彼らはパン五つと魚二匹が何の役に立つだろうと思ったに違いありません。私達も、自分には主の為に何にもできないと考えることがあります。しかし、主は彼らが持参したパンと魚を取り、天を見上げて神を褒め称えてパンを裂き、人々に配るよう弟子達に与えました。彼らは自分達の手と足で群衆が求めていた物を配り与えることが出来たのです。自分達が持って来た僅かな五つのパンと二匹の魚で五千人の男が満腹しました。彼らは奇跡を体験しました。主が全ての人の必要を満たす力ある主であるとご自身を示したからです。弟子達は、人知を超えた不思議な経験をしました。聖書はこれを信じるかと私達に問い掛けています。彼らはイエスが主であり、神が共にいるので、主イエスが与えるものを人々に分け与えるなら、人々が心も体も豊かに満たされると知りました。自分達は主の手伝いをするだけで良いと分かったのです。

 主は今も世の人々が、コロナ禍の中で様々な物質的、精神的不安を抱えながら、その中で心身共に満ち足りた生活を求めると知っています。気力体力時間を要する務めです。主が、人々の為に私達の手伝いを求めているのです。教会の交わりや自分の心の中に閉じ籠もるのではなく、世に出て行き、主の手伝いをしましょう。地の塩、世の光となるとはそういう事と知りましょう。