メッセージ(大谷孝志師)
藁でなかった御衣
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年10月3日
マルコ5:25-34「藁でなかった御衣」 牧師 大谷 孝志

 人生、幾ら自分で努力し、主に祈り求めても状況が改善されないと、辛く、苦しくなる。この女性は十二年という非常に長い間、長血に悩まされていた。長血は苦しいだけでなく、律法で汚れた者とされていた。彼女は多くの医者に掛かったが、財産を使い果たしても効果が上がらないだけでなく、もっと酷くなった。

 聖書を読むと医者が悪い印象を受けるかも知れないが、実は、医者が問題のではなく、自分や他人の力で苦しい状態から抜け出そうとした結果そうなったことを教えている。そこに人の罪を見抜くことを、聖書は私達に求めていると知ろう。

 「われ罪人の頭なれども」という讃美歌があるが、困難な状況に立たされた時、自分の罪を見抜くことが大切。それが恵みを見出す道となるから。12年も意味が。一年は12ヶ月。一日は午前と午後の12時間と、12の区間が終わると、新しい時が始まる。彼女のように非常に長く、永久に続くように思える苦しみも、その期間が満ち、新しい時が始まると教えられる。彼女が主イエスと出会うことによって、12年間続いた苦しみが終わり、新しい人生が始まったことを聖書は教えている。

 この物語を通して教えられている人の罪とは何か。彼女は人からイエスのことを聞き、群衆と共にやって来て、後ろから主の衣のに触れた。「溺れる者は藁をもつかむ」という言葉がある。全財産を使い果たすまでに、自分としてできることをし尽くした。自分にできることもう何もないという状況になって、始めて、彼女は主イエスの衣に触れようと思えた。それ迄はどうだったか。彼女は自分の財産を自分の治療の為に医者に支払っていた。頼れる者は自分の財産と自分と他人の力だけだった。その思いが砕かれるまでの12年だったと言える。自分の力で自分の苦しみと闘ってみなければ真理を知ることができない罪の中にいる私達人間の姿がここに描き出されている。彼女は旧約の世界に生きていた。旧約聖書には、主に全てを委ねず、形式的礼拝に過ぎないことを認めず、先住の人々と共に偶像を拝みなから、反省も悔い改めもしないイスラエルの人々への主の厳しい裁きが数多く書かれている。彼らの苦しみの原因は主に対する姿勢にあると教えている。

 人はどうしても、先ずは自分で何とかしなければと考えてしまう。自分で何とかできると考える。自分が溺れていると認めない限り、藁でも掴みたくはない。
それに、世に生きていると、藁よりももっと確実な方法があると思うから。彼女も、懸命に助かる方法、苦しい状態から抜け出す方法を探した。しかし彼女は、イエスの存在を知った時、主イエスの衣に触ることを選んだ。この事を他人が聞いたら、そんな馬鹿らしいことをするなんてと思ったかも知れない。しかし聖書は、信仰は「溺れる者は藁をも掴む」思いで主イエスを信じ、主イエスに全てを委ねることだと教える。主の所に永遠のいのちを得る方法を聞きに来た青年は、主の言葉に従うことは、藁を掴むようなことだと思い、主から離れてしまった。

 彼女は主の衣に触れた時、それが藁ではないと分かった。病気が癒されたから。彼女は「藁をも掴む思い」だったかも知れない。癒される保証は何もない。でも、触ることを決断した。癒されると信じた。主はその信仰を見抜き、「あなたの信仰があなたを救った」と言った。私達は「何故苦しまなければいけないのか」と主に問うのでなく、本当に自分は主を信じているかと素直に自分を見詰め、罪を悔い改め、主にしっかりと向き直そう。そして新しい自分として再出発しよう。主が備えている新しい道を見出し、新しい自分として歩み始めることができるから。