メッセージ(大谷孝志師)

み言葉に従って知る喜び
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年10月10日
聖書 ヨハネ2:1-11「み言葉に従って知る喜び」  大谷孝志牧師

 月に一度ヨハネの福音書を学んでいます。聖書には四つの福音書がありますが、マタイ、マルコ、ルカは、記事の内容と順序が似ていて、共に観る、つまり読み合わせると、神の御業、御計画、御心がより深く分かることから共観福音書と呼ばれます。ヨハネはそれらの福音書の数十年後に書かれ、記事の内容と視点が異なること、イエスが「神の子、キリスト、救い主」であることを立証するという神学的傾向が強いことから第四福音書と呼ばれます。

 ヨハネはこの福音書を「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と書き出しました。この「ことば」はイエスのことです。全ての人の罪を贖う為に十字架に掛かって死に、三日目に復活したと自分達が信じ、礼拝しているイエスが、主キリストであり、真の神であると宣言しているのです。更に、この方が「ことば」と教えることで、イエスが神でありながら、人間と言葉によって理解し合える方であると教えます。次に彼は、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と言い、この世に生きた主イエスこそ真の神であったと教えます。そして1章後半で、ユダヤ人とバプテスマのヨハネの問答、ヨハネの証を記し、それらを通し、主イエスこそが、神であり人である特別な方であることを明らかにします。最後に、アンデレともう一人のヨハネの弟子がイエスの弟子に、ペテロ、ピリポ、ナタナエルらも主の弟子になる様子を記して、どのようにして人が主イエスを信じて弟子になり、どのように弟子達の群れが成長していくかを教えます。

 さて、ここにはその三日目に、ガリラヤのカナでご自分の栄光を現された時の事が記されています。主の母マリアはガリラヤのナザレという町に住んでいたとルカ1章にあります。カナはそのナザレから15km程にある町でした。そこに婚礼をする親戚があり、彼女は賄い方をしていました。彼女は、ぶどう酒がなくなったのを知り、その事を我が子であるイエスに告げました。それへの主の答え、「女の方」との呼び掛けには違和感を感じさせられ、その後の言葉にも冷たい印象を受けます。母マリアが自分の子に特別なものを感じ、我が子に何とかして欲しいと願ったのだとイエスが判ったからです。私達もイエスを主と信じ、従っていますが、主イエスを自分の願いを聞いてくれる特別な方程度に思ってはいないでしょうか。主は母に「あなたは私と何の関係があるか。私の時は未だ来ていない」と言います。我が子が特別な方と知っていたマリアは。問題を解決する為に奇跡を行える方と思っていました。だから言ったのです。でも奇跡は人の要求に応えて主が行うのではなく、神が定めた時に行うのです。私達も、神が災いではなく平安を与え、将来と希望を与える計画立てていると信じ、主が願いを叶える時を待てば良いのです。

 ヨハネは20:31で、この福音書を書いたのは「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」と言います。カナでの奇跡は、人々が主を信じる為に、主が栄光ある神の子キリストであることを示した最初のしるしとなりました。

 マリアは給仕の人々に、イエスの言う通りにしてと言います。イエスが我が子だからではありません。我が子を見ていて、神が共にいてこの子の願いを聞くと信じていたからです。給仕達はその通りにしました。今の水事情とは違います。80或いは120リットル入りが六つと膨大な量の水瓶を一杯にするのは非常な重労働だった筈です。でも彼らはしました。何故したのでしょう。主はマルコ10:27で「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」と言いました。マリアも彼らもイエスを見て、この方こそその神が共にいる方と信じたのです。私達も信じましょう。

 さて、そこにあったのは、ユダヤ人が自分を清める為に置いた水瓶です。当然水は入っていました。主は「水がめを水で一杯にしなさい」と給仕達に言います。一杯に満たされてなかったことには重要な意味が隠されています。それは、ユダヤ教の律法を守れば神の清い民となれるとの教えが不完全であることを暗示しているからです。そして、ぶどう酒がなくなり、新しいぶどう酒が必要になったのは、その事実を神が明らかにする為だったのです。更にこの事は、人が神に喜ばれるきよい者となり、救われる為には、ユダヤ教では不完全なので、イエスが神の子キリスト、救い主としてこの世に現れたということを示しています。ユダヤ人は自分達は神の民で、自分達の神が真の唯一の神と信じていました。しかしユダヤ教の教えによってでは、人は自分の罪から自由になれず、神に喜ばれる民になれませんでした。ですから「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(3:16)」とあるように、御子主イエスを信じて救われる道を神が開いたのです。

 さて、給仕達がそれを汲んで宴会の世話役の所に持って行くと、きよめの水が良いぶどう酒に変わっていました。このぶどう酒は、最後の晩餐のぶどう酒、十字架で流した主イエス・キリストの血を象徴しています。11節に「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された」とあるように、イエスは、ご自分が全ての人の罪を贖う救い主として世に来た十字架と復活の主であることを、この奇跡によって示したのです。

 水瓶が一杯になると、主イエスは給仕の人々にそれを汲んで、宴会の世話役の所に持って行くよう命じました。世話役は彼らが持って来たその水を味見して、良いぶどう酒であることを知り大いに喜びました。この給仕の人々に自分達の姿を見なさいと、聖書は、今ここにいる私達に問い掛けています。彼らは主に命じられ、その水を宴会の世話役に届けました。良いぶどう酒に変わっていた水は、主イエスを信じる者は救われるとの福音を象徴しています。4:14で主は「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と教えています。私達はキリストの体である教会で礼拝しています。礼拝でその生ける水、御言葉という命の水を飲んでいます。その水を自分だけが味わうのではなく、この世の飢え渇く人生を生きる人々にその水を届けなさいと主は命じます。世の人々に福音を届けましょう。み言葉に従いましょう。主は喜び、私達を祝福し、溢れる喜びを与えられます。