メッセージ(大谷孝志師)
賢い人と愚かな人
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年10月10日
マタイ7:24-27「賢い人と愚かな人」 牧師 大谷 孝志

 誰でも、人に賢い人と思われる方が、愚か者と思われるより良いと思うのでは。この福音書の5-7章に「山上の垂訓」と呼ばれる主のみ言葉が記されている。今日の個所はその最後の部分。主はこういう人が賢い人で、こう言う人が愚かな人と教えた。ルカ6章後半にも同じ様な主の教えが。ルカでは建て方が問題、ここでは建てた場所が問題。何故主はこう教えたのか。人は生まれる家も家族も選べない。地域も選べない。更に、どんな資質を持って生まれるかも自分では選べなかった。しかし物心が付いてからは、どんな生き方をしたいかを考え、選ぶことはできる。岐路に立たされ、その一つ一つを選択しながら、誰もが自分の人生を歩んでいる。

 主イエスは山上の垂訓で、人が幸いな人生を生きるにはどのような選択をすればよいかについて、様々な事を教えていると言える。主は選択肢を示す前に「こういう人は幸いです」と教えた。人は様々な選択の結果、今の自分があると知る。しかし、周囲や過去を見て、失敗したか、もっと別な道を選べば良かったなどと後悔するが、後悔先に立たず。しかし悪い道と分かってそちらを選ぶ人はいない。主は、自分が判断した先に、思っているものとは別のものが既にあると教える。現状を見詰めて、諦めたり、失望する必要はない。自分が今生きていること自体が幸いだと知りなさいと主は教える。これが聖書の世界、信仰の世界。主イエスを信じる者が生きている世界と知ろう。前向きに将来を信じて生きられると知ろう。

 だから主はこの山上の垂訓で、私と共にこの世で生きているなら、こうしなさい、こうしてはいけないと教える。しかし「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言われても、できる訳はないと私達は考えてしまう。何故主はしなさいと言うのか。できない事をしなさいと言うのではない。できるから、それをすれば幸いな人になれるからしなさいと言う。私達は不幸な人生を送りたいとは思わない。でも頑張ってもできない、祈り求めても実現しないと、諦めてしまう。しかし主は、求めれば良い、そうすれば与えられるからと教える。

 人は物があれば、欲しいものが有れば幸せだと思ってしまう。無ければ、得られなければ、幸せではないと思ってしまう。主は、その考えに囚われている人は愚かな人だと言う。自分は幸せになれると分からない人。幸せになる方法を教えているのにそれをしようとしない人だから。だから、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、自分が必要だと求めているものが与えられるからと教える。

 神の国と神の義とは何か。主は山上の垂訓の中で「主の祈り」を教えている。「御国が来ますよう、みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈れと教えた。必要なのは、神と正しい関係を持つこと。神が全てを支配し、御心のままに全てを行っていると信じる者が幸いな人になれると主は教える。神の国と神の義を求めるとは、言葉を換えれば、主イエスというぶどうの木に繋がっていること、そうすれば実を結べる。「何でも欲しいものと求めなさい。そうすれば、それはかなえられる(ヨハネ15:7)」と主は言う。主は私達を愛しているので、幸いな人生を歩んで欲しい、愚かな人にならず、賢い人になるよう願っている。そして、時々の必要に応じてみ言葉を与えている。み言葉は聞き流してはいけない。心に留め、心に蓄えよう。そして御言葉を行う人になろう。主は私達にどうでも良い事を言っているのではない。行うことによって幸いな人になるよう御言葉を与えている。聞いた御言葉を行い、愚かな人でなく、賢い人、幸いな人になろう。