メッセージ(大谷孝志師)

一つの群れとなる為に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年10月17日
聖書 ピリピ2:1-11「一つの群れとなる為に」  大谷孝志牧師

 パウロがこの手紙を書いたピリピ教会は、ガラテヤの諸教会のように、彼が伝えた福音から離れてはいなかったし、コリント教会のように分派等による問題がある訳でもありませんでした。新約聖書の中には、ヨハネの第一の手紙のように「愛」が多く使われ「愛の手紙」と呼ばれるもの、この手紙のように「喜び」が多く使われ、「喜びの手紙」と呼ばれるものがあります。

 この教会の人々と彼は、他の教会とには見られない程、関係は親密でした。しかし、1章の最後に「福音に相応しく生活しなさい」と勧めました。彼らも私達と同様、弱く足りない所のある人の群れ、成長途上の人々だったのです。彼らはパウロが感謝するほど、福音を懸命に伝え続けていました。しかし、その宣教の働きを阻止しようとする反対者がいて、パウロと同じ苦闘を経験していたのです。神は彼らの間で、世の人々の救いの為に、彼ら自身の救いの達成の為に良い働きを始め、完成を目指させていました。彼らが福音に相応しく生きることによって、反対者に勝ち、この教会が神の教会としてしっかりと立つことができ、一つの群れとなり、成長していけるからです。

 その為には、彼らに「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、聖霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら…私の喜びを満たして」と言います。パウロは、彼らにもしもあるならと疑問形で尋ねているのではありません。あると確信はしています。つまり「あるのだから」して欲しいと言うのです。彼らにできない事をしなさいと勧めるのではありません。あるのだけれど、行動に移せない部分があったのです。私達もそうですが、良いと分かってても行動に移せないことがよくあります。でも、彼らにはまだできなくても、主ができるようにしてくれるのです。そうなることを主が望むからです。良いと思う事を積極的にしてご覧なさいと彼は勧めているのです。

 彼がこの教会の人々の信仰を深く信頼しているのは事実です。しかしこう勧めるのは、この教会の中にも妬みや争いが動機であったり、党派心や不純な動機で福音を伝える人々がいたのです。しかし彼らにしても、できるできないは別にして、主イエスのように相手を愛そう、自分を大事にするように相手を大事にしようと思い、福音に相応しく生きようとしていたと思います。そうすれば主が喜ぶ、と知るからです。でも現実には、その難しさを彼らが教会生活の中で味わっていると、パウロは知らされていたからだと思います。

 ですから彼は「同じ思いとなり、同じ愛の心を持」てと言います。同じとは相手と同じ思いや愛をという意味ではないし、思いと心を相手と一つにするのでもありません。互いが主イエスと同じ思いとなり、主と同じ愛の心を持ちなさいという意味です。相手と自分という人だけを見ていると、相手や自分が嫌になることがあります。ですから、見方を変え、主に愛され、助け導かれている者、主が共にいる者同士として相手と自分を見ましょう。見方を変えると、主ならこの人に何をするか、どう対応するかを考えられ、互いに、心を合わせ、思いを一つにでき、主に愛されている教会の群れになれます。

 パウロはこの教会の人々が一つの群れとなるよう語り掛け、私の喜びを満たして欲しいと言います。勿論、自分が喜びたいからではありません。周囲にはまだ主イエスを信じていない多くの人々がいるからです。福音をその人々に伝える為に、これからも苦闘しなければならないからです。彼らが福音に相応しく生きようとし、熱心に福音を伝えようと思えば思う程、悪魔の妨害や挑発は厳しいものになります。その悪魔に隙を与えないようにする為には、同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにすることが必要だからです。福音宣教は一人一人が自分が生きる世界の中で、自分が接する人にすることです。勿論、御霊が助け導きますが、兄弟姉妹の祈り、励ましや支えが、戦い抜く為には欠かすことは出来ないからです。福音宣教は個人の業ではなく、協働作業なのです。自分の後ろには皆がいる、自分一人ではないと思ってすると、大きな実りを与えられます。ですから心を合わせ、思いを一つにして、主の業を行うようパウロは彼らに勧めているのです。

 しかし、協働作業になると教会も人間の集まりですから、問題が生じることがあります。「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく」とパウロが言うように、どうしても他人の働きぶり、できるできないが気になることがあるからです。ですから彼は、先ず「互いに人を自分よりすぐれたものと思いなさい」と言います。そして自分がした事を自分で、或いは人と比べて評価せずに、他の人の姿勢や努力の様子を素直に認めることが大切と教えます。そして、そのように、キリスト者として共に福音に相応しく生きる為には「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」と言います。この思いは、6-8節の十字架のキリストの思いです。神であるのに、自分を空しくして僕の姿をとり、自らを低くして死にまで、十字架の死にまで従ったそのキリストをしっかりと見詰め、その主キリストに倣う者になりなさいと彼は教えます。その信仰に立つなら、自分を捨て自分の十字架を負って主に従って生きられるからです。自分達が互いに愛し合い、仕え合うことによって、麗しい主の体である教会として成長していけるからです。

 それに加えて、9,10節に示されている高挙のキリスト見上げる事が彼らには大切と教えます。何故なら、その主を見上げることによって、主の前ではどんな人でも、全ての人が皆等しい主の僕であり、働き人同士と分かるからです。主イエス・キリストを見上げ、主の御前にいる自分を意識しましょう。そうすると、互いに相手を自分の兄姉と素直に認められ、共に生きることができます。福音に相応しく生活し、福音の信仰の為に心を一つにして共に戦っていく為には、人を見ずに、相手の人の内に主キリストを見ましょう。そうすれば自分中心の思いから解放されます。皆が一つのキリストの体の部分同士と認め合い、神の栄光を現す一つの群れの教会となれるからです。そうするなら、個性も能力もそれぞれ違うこの教会の私達が、この教会が建てられたこの地に住む全ての人と共に、「イエスは主です」と告白して、父なる神、ひとり子を与える程に世を愛された神に栄光を帰する時が来ます。皆が一つの群れの仲間として共に生きられます。本当に素晴らしいことだと思います。