メッセージ(大谷孝志師)
二段階の癒しが必要
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年10月17日
マルコ8:22-26「二段階の癒しが必要」 牧師 大谷 孝志

 コロナ禍の中でも、礼拝と祈祷会が休むことなく続けられている。主イエス・キリストが生きて働き、私達を愛し、守り、祈りに応え、み言葉をもって養い続けている。感謝。

 ある式典のニュースを見ていたら、主催者が「不備な点、失礼の段がありましたらお許し下さい」と挨拶した。人が身に着けている知恵とも言うべきものか。彼は不備や失礼のないよう慎重に、神経質なくらいに準備を重ねてきたのではと思う。なくて当然、有ればお叱りを被るから。私も週報等を作っているが、昨今ミスが多いと反省している。勿論、ミスが無いように注意しているが。主イエスがマタイ7:3で「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」と言うが、自分のミスは見えなくても他人のミスはよく、大きく見える。自分がミスを犯さないよう注意する以上に、その事に注意する必要がある。全体を造り上げる大きな苦労を、その小さなミスが帳消しにしてしまうことがあるから。見えるとは大きな事。目にした小さなミスが、目に見えない相手の思いを憶測させ、相手の自分に対する評価を勘ぐってしまうことが時に起きることがある。一つの言葉や態度、事件がそれ迄の評価を一変させることもある。

 昔、ある教会に大きな事件が起きた。問題が生じた直後の説教題は「石と心」で、それ以後の週報の黙想には「真理は裁き、愛は包む」「私にとって何もかもうまくいかない時でも、あなたはなお愛にていまし給います」「僕は理解も同情も欲しくはない、ただ信頼だけが欲しい」・・・とキュルケゴールや塚本虎二の言葉を引用しながら、行き詰まった状況の中での呻きが綴られていた。主イエスの赦しの前には修復できない過ちはない筈。だがその事件により、教会は絶頂期から一転試練の時となった。人は相手の内側を見ることはできいない。外に出たことは確かに事実の一部。だがそれでその人全体を評価してしまう事に人の悲しい現実が。

 今日の個所の前に四千人を満腹させた記事がある。この奇跡を見た弟子達が、自分達がパンを持って来なかったことで議論し始めた。それに気付いた主が「まだ分からないのか」「目があっても見ないのか」と言った。この後、主に「あなたがたは、私を誰と言うか」と尋ねられ「あなたはキリストです」と答えたペテロが「下がれ、サタン」と叱責された。私達も弟子達と同じ。見えているつもりで見えていない。見うと思っても見えない悲しい現実の中に生きている。しかしその私達を主は近くで見ている。そして手を差し伸べている。それが私達の主。

 人々が、目の見えない人を連れて来て、彼に触ってくれるよう主に懇願した。主は彼の両目に唾を付け、その上に両手を当て「何が見えるか」と聞いた。すると「木のようだが、人が歩いているのが見える」と答えた。ぼんやりとしか見えなかった。二度目の癒しで目がすっかり治り、はっきり見えるようになった。最初の癒しでは真実の姿は見えなかった。この人は主に再び触られる必要が有った。

 救われても、この世に生きていると様々な事で悩むこと、疑うことも多い私達。初めは小さくても、疑い迷う内に自分も周囲も巻き込み、事態が破局へと進んでしまうこともある。真実が見えているつもりでも、実は見えていない自分に気付くことが必要。主に「真実を示して」と祈ろう。主が再び私達に触れてくれる。この奇跡はその道が備えられていると知らせる。見聞きした事で全てが判っていると思わず、ぼんやりとしか見えてない自分に気付き、主に「触れて下さい」と願い求めよう。真実を知り、安心して生きられる祝福に満ちた人生がそこにあるから。