メッセージ(大谷孝志師)

心の奥を試す主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年10月24日
聖書 エレミヤ11:11-17「心の奥を試す主」  大谷孝志牧師

 月に一度旧約のエレミヤ書を学んでいます。今日の個所で、神はエレミヤに、ユダとエルサレムの住民にこの契約の言葉を聞かない者は呪われると語れと命じました。旧約聖書には神が人との間に立てた契約だが二つあります。最初はノアと息子達と後の子孫との間に立てた契約です。これは、今後洪水によって全ての生物を滅ぼすことはないと神が宣言した一方的な祝福の契約で、そのしるしは虹でした。次は、神がアブラハムとその子孫との間に立てた契約です。神は「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれと命じ、カナンの全土を彼とその子孫に与え、神が彼らの神となるので、あなたはこれを守らなければならない」と言い、そのしるしとして、民に割礼を受けることを命じました。今日の個所の契約はこの契約です。

神はアブラハムに「あなたの子孫は、自分たちのものではない地、エジプトで寄留者となり、四百年の間、奴隷として苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として使えるその国をわたしは裁く、その後、彼らは多くの財産と共にそこから出てくる。そして、エジプトの川からユーフラテス川までの地、カナンの全土を彼と彼の子孫に永遠の所有として与え、彼らの神となると」と約束し、アブラハムと契約を結びました。エレミヤに語れと言った契約は、神がこの数百年後、エジプトで奴隷となったイスラエルの人々に、乳と蜜の流れる豊かなカナンの与えるとの契約を思い起こし、それを実行した契約のこと。しかしこの民はエジプトから導き出され、カナンに、十二部族が各々の地を与えられ、定住しました。しかし彼らは「私の声に聞き従い、全てわたしがあなたがたに命じるようにそれを行え、そうすればあなたがたは私の民となり、私はあなたがたの神となる」と神に命じられたその契約を守らなかったのです。神がしばしば預言者達を遣わして彼らを戒めたのですが、その声に聞き従わず、頑なな悪い心のまま歩んだのでした。彼らは、先祖達が犯したのと同じ罪を犯し続けていました。数多くの神々を拝み、数多くの祭壇をバアルに犠牲を捧げる為に築きました。彼らがそのように神との契約を破った故に、神は彼らに災いを下すと宣言したのです。神は、災いを下された民は偶像のもとに行って叫ぶだろうが、それらの神々は決して彼らを救わないと言います。更に神は、彼らが災いに遭って神を呼び求めても、彼らの為に祈るな、私は聞かないからとエレミヤに命じます。

 これは私達が信じ、礼拝している神です。神は世の初めから永遠に全世界、全被造物の神だからです。ユダとエルサレムの人々は、神に背を向けているのではありません。確かに彼らは、カナンの人々と同じように偶像に犠牲を献げていました。しかし、彼らはその同じ手で、自分達の神を信じ、神殿で聖なる犠牲の肉を献げ、神に従っていると思っていたのです。私達も今、ここで神に自分を献げながら礼拝しています。しかし、神は自分のみを神として礼拝することを求めると知りながら。神以外のものに頼り、それを神、一番大切なものとしていないでしょうか。神は決してその人を喜ばれません。

 旧約聖書には、人々をご自分の民として正しく生きる民とする大切な働きをさせる為に、神が選び用いた預言者達のことが書かれています。しかし、それは旧約時代だけではありません。新約時代の今も、神は私達を預言者として選び、御言葉を、御旨を世の人々に知らせる為に遣わしているのです。

 18-23節には、エレミヤ殺害計画とそれに対する主の裁きが書かれています。アナトテはエレミヤの出身地です。彼はその町の祭司でした。その町の人々が彼の預言を封じる為に殺害しよう計略を巡らしていたのです。しかし、彼はそれを知らず、自分は屠り場に引かれていくおとなしい子羊のようだったと言う。彼は、御心を伝えて行く中で、人々の反感を買い、攻撃されたこともあったでしょう。しかし彼は預言者として生きていました。自分の将来や周囲の人々の感情がどうであろうと、ただ主を信じ、全てを主に委ねて、主の為、世の人々為に生きたからです。彼らは彼が同じ神を信じる者、しかも祭司であると知っています、。しかし彼の預言は、彼らにしてみれば、自分達の生き方を真っ向から否定するものだったのです。彼らは彼の抹殺を計画しました。預言者は人のではなく、神の側に厳しく立つからです。そして厳しく立てば立つ程、真の神を知らず、神に背く人々から激しく憎悪されたのです。彼は殺害計画を神に知らされます。しかし自分で報復しようとしません。自分の訴えを神に打ち明けただけ。正しい裁きをする神に任せたからです。

 彼は自分を、彼らの為の犠牲の子羊と見ています。勿論、主イエスとは違います。民の罪を贖うことなど出来る筈はありません。しかし、彼は自分を民の為に主に献げています。民の悲しみを自分が負って歩んでいるのです。私達の周囲の人々も、福音、教会の良さを私達を通して知っても、無視したり反発したりして、教会や礼拝に来ようとはしません。知らずに滅びの道を歩んでいます。信仰と希望と愛を持つなら、幸いな人として生きる道があります。でもそれを知らないので、世の荒波に揉まれ不安と失望に喘ぎ悲しみ、悩みながらも、仕方がない、これが人生なのだと諦めています。私達は、そのような世の人々の本当の姿を彼のように、真剣に見極めているでしょうか。彼のように世の人々生き方を、人生を自分の重荷として負って生きているでしょうか。でも、していない、判っていても出来ないと思い、自分を責める必要はありません。神はエレミヤに、神の民として契約を結んでいる人々がそれを守れなかったので、災いを下し、救わないと彼らに告げさせました。

 しかし、今は新約の時です。神は十字架と復活の主イエスを信じるだけで、神の民とする新しい契約を全ての人と立て、律法という戒めの代わりに愛の戒めを与え、しかも契約を守れるように助け手として聖霊を与えています。これが福音です。この福音は世界の果てにまで届いている、とパウロはローマ10:18で言っています。私達も預言者としてこの福音を世の人に届ける使命を与えられています。この旧約聖書も私達に御心を示している聖書です。単なる昔話ではなく、どうしたら、人として正しく喜びと希望に満ちた人生を生きられるかを教えています。そして私達に、今自分の周囲にいる人々の姿をどう見ているか、人々に何をしたら良いかを考えよと、問い掛けています。