メッセージ(大谷孝志師)
バルテマイの信仰
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年10月24日
マルコ10:46-52「バルテマイの信仰」 牧師 大谷 孝志

 昔、聖書に題材を撮った映画が数多く作られた時があった。「偉大なる生涯の物語」「キング オブ キングス」等の主イエスの生涯を描いた作品やペテロを描いた「偉大な漁夫」、主イエスの代わりに罪赦された「ラザロ」、主イエスの後ろ姿や遠くの姿を描いた「ベン ハー」があった。このベンはヘブル語で息子、今日のバルテマイは「テマイの子のバルテマイ」とあるように、バルはアラム語で息子。主イエスの時代、ユダヤ人は聖書等の宗教文書はヘブル語を使っていたが、日常生活ではアラム語を使った。主も使っていたのでバル テマイと記されている。

 さて、この人が突然「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。多くの人達が彼を黙らせようとたしなめたが、ますます叫び続けた。私達は、その言動を通して彼がどんな思いで主イエスに向かって行ったかを知る。

私達は今主イエスを礼拝している。どんな思いで主に向かっているか、声に出さなくても、主に憐れみを、助けを求めて心の叫びを上げているか。彼は目が見えなかった。しかし彼は心の目で主イエスを見ていた。私達もこの目では主イエスは見えない。でも、私達は見えない主イエスを信じ、従って生きている。彼は、イエスを自分の全てを決める方と信じていた、だから、人々にたしなめられ、黙れと言われても叫び続けた。私達にとって主イエスはどんな方か。目に見えなくても心に描いている筈。彼は主イエスに、自分の人生の根拠を、目標を、そして生活の原動力である主イエスを見ていたのではないか。私達はぼんやりと信じているだけで、そのような方として,真剣に主イエスを見詰めているだろうか。

 彼は激しく主に求めている。私達は彼のように主に激しく求めているか。彼のように主に期待しているか。主を信じ、礼拝しているだけで満足していないか。自分自身を真剣に見詰め直してみよう。何が必要か、どうなりたいのか、何を正せば良いのかと。或いは、自分はどんな人になりたいのか、どんな仕事をしたいのか、充実した自分らしい人生を生きるにはどうしたいのかを考えてみよう。

 バルテマイは主イエスがその思いに応え、必要な事をしてくれると信じたから、イエスがいると聞いて「私を憐れんで下さい」と叫び始めた。私達は主に求める時「私を憐れんで下さい」と心の中で叫んでいるか。主に憐れみを乞うことに抵抗を感じ、御心ならば叶えて下さいと祈っていないか。主の恵みは、自動販売機のように、祈れば出てくるものではない。うっかりすると、自分と主イエスを対等の立場に置いていることがある。恵みは主の憐れみによって与えられるもの。彼は主に「何をして欲しいのか」と聞かれ、「見えるようにして下さい」と願う。主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言う。すると、直ぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスに付いて行った。彼の信仰は何だったのか。

 彼はイエスなら私の思いに応えると信頼し、私の祈りを叶えられると主の愛と力を信じた。私達は主は私の祈りに応えてくれるかと疑問を持ったことはないか。主は万能と信じよう。人には出来ないが、主には出来ない事はないと信じよう。主は憐れみ深い方と信じよう。私には主に求める資格はないと考えなくて良い。私達が、自分を束縛している様々なものから自由になりたいと思って求めれば、主は私達を憐れみ、願いを叶える。ただ信じれば良いと気付こう。主が求めるのは信仰。他のものには目を向けずに、ただ主けに目を注ぎ、主に憐れみを求めよう。バルテマイのように主に求め続ければ、主は応え、必要なものを与えるから。