メッセージ(大谷孝志師)
艱難汝を玉にす
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年10月31日
ローマ5:1-5「艱難汝を玉にす」 牧師 大谷 孝志

 人は一人では生きられません。周囲の人の協力が有るからこそ生活できているのです。とは言え、人生には順調な時もあれば、逆境の時も有ります。人は、順調な方が良いのは確かです。でも、逆境の時に本当の姿が現れると言われます。これも確かです。何故なら、順調の時は家族や友人、学校の教師や職場の上司という人達が自分に対して好意的です。多少のミスも見逃してくれるので、自分の内側を曝け出さずに済むことが多いからです。しかし逆境の時は、一生懸命誠実に物事をしようとしても、した事が裏目裏目に出ることがよくあります。更に過去の自分の失敗が曝け出され、悪口を言われたり、陰口をたたかれていると知らされたりして、辛い思いをすることもあるのではないでしょうか。でもそれを、自分の素の姿、自分の内面が、自分にも他人にも表に出て来たのだと前向きに捉えることが大切だと思います。

 箴言27:17に「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」とあります。人は人との関係の中でその人格が研がれていくものなのです。順調な時は結構誤魔化しが利きます。周囲に甘えられるからです。逆境の時は確かに辛いのですが、そこで、自分可愛さで相手を非難したり、自分を卑下してしまうと坂を転がるように自分が落ちてしまうことがあります。ですから、逆境の時は、人はその友によって研がれるを積極的に捉えて、相手の厳しい対応を、自分を友と見ているからこそしてくれたと感謝するくらいの心が必要です。自分の相手への見方を変えると、相手の自分への見方が変わることがあるからです。それよりも大事なことがあります。今経験している辛い事、苦しい事は、将来の自分にとって必要な事として、神が今与えている事と気付くことです。私が子供の頃、母が「鉄は熱いうちに打て」「若い時の苦労は買ってでもしろ」「玉磨かざれば光なし」と色々と教えてくれました。これらの格言は今日の「艱難汝を玉にす」と正に同じ事を言っていると言えます。

 人は自分も含め、誰もが素晴らしい能力を持っている事を認めましょう。しかし認めるだけでは駄目なのです。それが潜在のままで引き出されなかったら、持っていないのと同じ事になるからです。昔、狼に育てられた子が人間社会に戻った時、狼と同じ行動をし、人間社会に適応できなかったと聞いたことがあります。だから、子の力を引き出そうと、幼稚園から塾に通わせ、一流の学校を出し、我が子に幸せな人生をと考え、実行することが親の務めと考える人もいます。でも、それで子が必ず幸せになるものではありません。

 パウロは「キリストの恵みによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられ」たと言います。彼はこれ迄、多くの労苦を経験し、死に直面したことも屡々でした。しかし彼は、世の人とは全く違う視点で物事を見ています。彼の信仰者として生きる姿に学ぶべきものがあります。

 昔の人は「可愛い子には旅をさせよ」と言いました、親の手元で温々と育つより、世の中の辛さ苦しさを経験させた方が我が子の為だ。人は、苦しみ悩んで成長する中で本当の自分を見出していくものと知っているからです。 パウロは幼い頃から、ユダヤ教有数の教師であるガマリエルの薫陶を受け、将来はユダヤ社会の指導者と目されていました。でも、自分が主に相応しい人になる為には艱難が必要だと気付かされたのです。彼は自分という人間を本当に知っていたと言えます。以前の彼は教会の迫害者でした。彼が最初に聖書に登場するのは、殉教者ステパノの処刑の場面です。彼のその時の説教を当然聴いた筈です。福音に触れる機会があったのです。しかし、イエスが神が世に遣わした主キリストであること、救い主であることを否定し、主の弟子達を迫害し続けたのです。そしてダマスコにいる主の弟子達を殺害しようと息巻いてその町に向かう途中、復活の主イエスがその自分に現れ、福音を宣べ伝える者に任命したのでした。彼は、自分の全てを包み込む主の愛を知った時、自分の姿を素直に見詰め、自分の弱さ足り無さを受け入れ、直面した艱難は自分に必要なものして主が与えたものと受け止められたのです。

 彼の人生は恐らくですが、復活の主イエスに会う迄は、ユダヤ教徒として胸を張って生き、順調のものだったと思われます。しかし、復活の主イエスに会い、伝道者となった後は、苦難の連続です。でも、彼は苦難さえ喜んでいると言います。苦難は苦しく困難を感じるから苦難なのです。厭な事です、出来たら味わいたくない事です。彼は苦難を経験した方が自分がキリスト者として成長できるから、苦難を喜んでいるのでしょうか。自分は神に相応しい者になる道を歩んでいると思うからでしょうか。彼はその理由だけで苦難を喜んでいるのではありません。これ程の苦難に遭うのは神のご計画であり、御心と知っているから(使徒9:16)です。私達にとってもこれは大切な事です。

 彼は、自分が苦難に遭う中で人々が救われ、教会が生まれていくことを経験しています。この苦難は、主が人々を救う為に自分に与えたものと知るから喜ぶのです。勿論、彼が苦難の中で信仰者として成長していること、忍耐強くなり、物事に、相手に正しく対応できる柔軟性が身に着いていったことは確かです。私自身も彼には及びませんが、様々な苦難の中で、自分と相手、主の事を正しい方向で推測でき、希望が持てるようになったのは確かです。しかし、失望の連続だったとしたら人は誰でも疲れてしまうでしょう。しかし、彼は疲れていません。「私は、キリストの故に、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱い時にこそ、私は強いからです。(Uコリ12:10)と言います。主は自分に従い、福音に相応しく生きようとする彼に力と愛を豊かに注ぎ込み、希望を失わずに生きる者とするからです。それが私達が信じ、従って生きている主イエス・キリストです。主はいつも彼と共にいて、彼を助け導いていたことが、聖書を読むと良く判ります。彼は希望に溢れて御業に励み続けているからです。主は言われます。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます(マタイ28:20b)」と。主は今も生きて働いています。私達も苦難を喜び、苦難により自分が研がれましょう。艱難は私を玉にすると前向きに捉え、主に喜ばれる者として生き生きと人々に福音を伝える者になりましょう。主は言われます。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と。