メッセージ(大谷孝志師)

義人は信仰によって生きる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年11月7日
聖書 ガラテヤ3:1-11「義人は信仰によって生きる」  讃美と証の礼拝

  私達は誰でも様々な弱さを持って生きていると思います。弱さを持ていても、或る人はその弱さをどうにか克服したいと思いながら生きています。或いは、どうしようもないと自分を諦めながら生きている人もいると思います。しかし弱さには、自分の力で何とかなる弱さもあれば、自分の力ではどうにもならない弱さもあります。私自身、諸教会で牧師をしてきましたが、中に、肉体的精神的障害を持ちながらも、その大きな苦しみを、主が自分に与えた試練として受け取り、それに耐えている何人かの人々がいました。その方々の信仰に私自身が強く励まされたのを思い出します。しかし同時に、私の内に主はなぜこの方々をこのままにして置くのですかという祈りが生じていました。でもそれは呟きではなく、御旨を尋ね求める呻きでした。

 旧約聖書のヨブは、神に許されたサタンによる激しい災いを受けました。彼は妻に「あなたはこれでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい」と言われました。しかし「私達は幸いを神から受けるのだから、災いも受けるべきではないか」と答えたのです。人は自分にしか分からない弱さ苦しさを背負って生きています。殆どの人はヨブのようには答えられないと思います。御旨と判っていても、受入れ、耐えるのはかなり辛く苦しいからです。しかし、主が自分を変える為に試練を与えていると信じている人もいました。意味や目的は判らなくても、自分が置かれている状況を御旨と信じ、全てを主に委ねて生きようとした人に接した私は、その人々から大きな励ましを受けました。牧師だから味わえた恵みです。

 パウロが「義人は信仰によって生きる」と言うように、主イエスを信じて生きられることの素晴らしさを言い表した言葉です。だが信仰は目に見えません。いくら主イエスを信じていても、人は弱いので、直ぐぐらつきます。信仰によって生きようと思っています。でも不安定なので、堅く立てません。

 このガラテヤ諸教会の人々も、信仰の素晴らしさをパウロから知らされ、主イエスを信じて喜んで生きていました。でも、律法を守らなければ救われないと主張する人々がエルサレムから来ると、彼らの考え方に簡単に流されてしまったのです。私たちもそうです。人は目に見えるものに左右され易いからです。例えば、教会で何もしていない人、神に喜ばれないと思う事をする人より、礼拝に出ている人、奉仕をしている人、礼拝に出られなくても祈りによって教会を支えている人の方が信仰的な人と考えるのではないでしょうか。行いや目に見える事でその人の信仰を判断してしまうのです。何もしなくても良いです。ただ、主イエスを信じれば救われますと言われるより、こうすれば救われます、信じればこういう人になれますと言われる方が説得力が有るように感じ、行いで信仰を確認したくなるのが私達かもしれません。

 確かに、信徒の言動の善し悪しを判断するのに、目に見える行いは基準になるかも知れません。しかし基準は人によって異なります。ですから、或る人は良いと言っても別の人は駄目と言うかも知れないのではないでしょうか。

 それに、誰もが認める基準が出来たとしても、それを完全に守れる人が何人いるでしょう。パウロがローマ7:19で言うように「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っている」のが私達人間なのではないでしょうか。

 ガラテヤ諸教会の人々もそれが判らなかった訳ではないと思います。でも、「何もしなくても信じるだけで救われると思いますか」と言われて「はい」と言えなかったのでしょう。しかし考えてみて下さい。山上の垂訓の主の言葉を完全に行い切れる人がいますか。行いによって救われるとしたら、誰が救われるでしょうか。誰もいません。あのパウロでさえ、ローマ7:24で「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」叫んだからです。しかし彼は、その直後に「私達の主イエス・キリストを通して、神に感謝します」と言います。彼は自分福音宣教活動の経験から、人は行いによって救われるのではないこと、信じた人が救われ、その生き方が大きく変わっているのを見ているのです。その人が信仰によって救われ、新しい人生を歩み出す為に、主イエスが十字架に掛かって死に、自分を含め全ての人の罪を贖ったことを否定できない事実と知ったからです。

 それにしても、彼は何故、律法の行いによっては人は救われないこと、人は主イエスを信じる信仰によってのみ救われることを、繰り返し教えるのでしょう。彼は決して行いの大切さを否定していません。でも、目に見える行いによって、人の信仰をこうだと決め付けてしまうことに、重大な危険性を見ているからでそ。何故かと言うと、それにより、相手が目に見えない心の中で、或いは隠れた所で行っている良い事を否定してしまうことになるからです。そして、そこに裁き合いが生まれ、人間関係がぎごちなくなり、分断が生じることもあるからです。何より大切なのはその人を主イエスが自分の隣人として自分の側に置いていると認めることです。それを信じることです。主イエスが自分と相手を愛し、支え、関わっていると信じることです。勿論、信じるのですから、この世的に言うなら、何の保証もありません。しかし、自分を信じることは結構簡単にできます。結果がどうであろうと、自分がしたことなので、諦めが着きます。でも他人の場合は、信じるのは難しいです。人の心の中は他人には判らないからです。悪い結果になったりすると、失望したり、憤りを感じたりします。しかし、主を信じるとは、経過も結果も全てを主に委ねることです。そうすると自分がと言う思いと判らないという相手への不安が消えます。自分が主に全てを受け入れられているように、主は相手の全てを受入れていると信じましょう。相手の信仰を素直に受け入れられ、相手がいることは自分にとって意味と価値があると受け止められます。

 当然の事ですが、私が主を信じるように相手の人も主を信じているのです。その信仰を信じましょう。主は「私を信じているなら、あなたも相手も互いに愛し合い、受け入れ合うとこが出来るよ」と言います。主に救われていることを共に喜び合い、主と共に生きることを信じましょう。それができるようになると「義人は信仰によって生きる」との御言葉通りの自分になれます。主に喜ばれる者同士として、安心して共に世に生きる者となれるからです。