メッセージ(大谷孝志師)
教会の人間関係
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年11月7日
Tコリント12:21-27「教会の人間関係」 牧師 大谷 孝志

 私達は主イエスを信じる人をキリスト者と呼ぶ。パウロはこの手紙をコリント教会の「キリストにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々」に宛てて書いた。そして手紙の中では彼らに「兄弟たち」と呼び掛ける。この教会には、分裂、分派、差別等の様々な問題があり、その解決策をパウロに求め、それへの答えを書き送ったのがこの手紙。彼は彼らを聖徒と呼ぶ。聖徒とは聖なる神に喜ばれ、受け入れられた人々。そう呼ぶ理由は、キリストにあって聖なるものとされているから。主イエスが彼らの罪を取り除く為に十字架に掛かって死に、復活して彼らと共にいて、愛し、助け導き、悪い者から遠ざけているから。

 この教会に限らず、教会も人の集まりだから、様々な問題が生じる。皆が同じであれば問題は無いが、個性、感性、能力などの違いから、無理解や誤解が生じる。しかし、幸いなことに、教会は問題が深刻にはならない。この手紙の冒頭でパウロは、「あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストイエスにおいて豊かな者とされました」という。やはり「キリストにあって」だが、教会の人間関係はこの世とは違うと彼は教えている。違いがあり、人間故に持つ醜さが表面に出て、苦しみ、悲しむ人々もいる。しかし、その違いを受け入れられるのが教会。それは一人一人の違いは「霊の賜物」が違うからと彼は教える。

 教会の中では、良い働きをする人を見て、羨ましがらない。主が必要とし、主がさせたから、それが出来たと考え、私の為、私達の為にこの人がしてくれたとむしろ感謝する。した人も当然の事とをさせて頂いただけ、と謙遜するから。

 とは言え、人間の集まりだから、違いが気になることがあるのは当然、だから、パウロは、今日の個所で教会はこういう所だと教える。教会は自分はここで必要の無い人間とは考えない所。教会が強い人ばかりだったらどうだろう。世の中、強い人ばかりではない。弱い人こそ、安心と希望を求める。教会はそれを得られる所。もし強い人ばかりだったら、弱い人は恐ろしくて入れない。その為にも教会に弱い人が安心して自分の居場所と思っていることが必要。誰でも自分が必要だから神が私をここに招き入れた安心していられるのが教会。だから、教会はあの人は教会には必要ないと考えない人がいる所。目や口には手や耳の大切さが分からない事が。頭には足の大切さが判らない時が。教会に来ている人は主が必要だから招き、交わりの中に生かしている。だから、他よりも弱く見える人も必要だと受け入れる。それが教会の人間関係。私は教会に行き始めた頃、教会の人の顔が同じように輝いて見えた。後でそれぞれが悩みや苦しみを背負って教会に来ていると知った。主がそのような顔になる心を与えていたと知った。

 教会の人間関係の良い所は、平等の原則の上に成り立っていること。男女平等と言っても、体力や役割が違うように、皆が同じ役割や務めを果たしているのではない。主は教会の機能がより能率的、効果的に働くよう、特定の人を選んでその務めを果たさせているだけ。大きな重荷を負っている人がいるのは確か。だから、その事に対しては、やはり感謝と尊敬の念を持って見ることが大切。人間の群れでありながら、教会の人間関係が破れそうで破れないのは、主が一人一人と共にいて助け導き、その関係を主が保っているから。それが教会。十字架と復活の主イエス・キリストが一人一人に信仰と希望と愛を与え、何よりも主の愛が、互いの関係をしっかりと結び合わせている所。そのような教会にいると感謝しよう。