メッセージ(大谷孝志師)

神が求める私達に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年11月14日
聖書 ヨハネ2:13-22「神が求める私達に」  讃美と証の礼拝

 ここには主イエスによる「宮清め」と呼ばれる出来事が記されています。これは共観福音書にも有ります。しかし、同じ過越の祭の時ですが、受難週初日に置かれています。ヨハネは主の福音宣教活動の最初に置いています。

 ヨハネでは、主は6章の五つのパンと二匹の魚で五千人を養った奇跡の後、「私は天から下って来て、世に命を与える者」と言います。11章では、四日前に死んだラザロを生き返らせ、ご自分が生きている者と死んだ者の主であることを示しました。これらの自分が誰であるかを示す二つの奇跡も過越祭が近い時に行われました。この福音書は、これ迄も、イエスがどんな方であるかを人の言葉によって読者に知らせています。最初は、浸礼者ヨハネの「世の罪を取り除く神の子羊」です。次はアンデレの「メシア(訳すとキリスト)」でした。ピリポは「モーセが律法の中に書き、預言者達も書いている方、ナザレの人で、ヨセフの子イエス」と言い、ナタナエルの「神の子」が続きます。そして先月学んだのがカナでの奇跡です。主イエスが招かれて出席した婚礼で、ぶどう酒がなくなったことを母マリアに知らされました。その時、ユダヤ人が使う清めの水を、主の晩餐のぶどう酒を象徴する良いぶどう酒に変えたのです。主は最初の奇跡をここで行い、ご自分の栄光を現しました。

 さて,主イエスは過越の祭が近づいた時、エルサレムに上りました。そして、エルサレム神殿で商売をしている人々を見て、犠牲にされる動物達を追い出し、金をまき散らし、台を倒し、鳩を売っている者達に出て行けと言ったのです。しかし、共観福音書のように「私の家は祈りの家と呼ばれる(イザヤ56:7)」「強盗の巣にした(エレミヤ7:11)」との旧約聖書を引用せず、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と言っただけでした、とヨハネは記しています。
 この「宮清め」が暴力行為に見えるは確かです。ですから、弟子達が「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くした」と詩篇69:9に書かれているのを思い起こした程だったのです。神の為に一生懸命なのは彼らにも判りました。でも逆効果ではと彼らは思ったのです。細縄で鞭を作り、それで動物を追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒したのは。確かに暴力行為です。しかし主は、神殿を聖なる神殿として大切にせずに、礼拝を私物化しているという彼らが犯している罪への神の怒りを彼らに見える形で示したのです。神は罪に対して決して寛容ではありません。厳しい裁きを下す方だからです。

 確かに人々は神を礼拝し、神殿に来て犠牲を捧げました。先日もCS礼拝で学びましたが、神は外面でなく、心を見る方なのです。人々の罪は、自分達が神と崇めているのは、自分が心の中に作り上げた神に過ぎないと気付かないことだったのです。福音活動の始めに一見暴力とも見える宮清めを主イエスがしたと記すことで、主が「まことの礼拝者達が、御霊と真理によって父を礼拝する時が来」ていることを知らせているのであり、そこに神の子主イエスがキリストとして世に来た理由、主が十字架に掛かって全ての人の罪を贖わなければならなかった理由があるとヨハネはここで暗示しているのです。

 イエスの神殿境内での暴力行為を見ていたユダヤ人達が、主に「こんな事をするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」と言いました。共観福音書では受難週の出来事なので、群衆がイエスを預言者として敬い、ユダヤの指導者達はイエスを殺そうと思っても手を出せないでいました。しかし、ヨハネでは最初の奇跡のすぐ後です。奇跡の場所もエルサレムから遠く離れたガリラヤのカナです。彼らの言葉は、イエスの行為に大きな衝撃を受けながらも、その姿に畏怖の念を抱いたことを暗に示しています。この出来事を「宮清め」と言って来ましたが、商売人達は悪を行ってはいないのです。と言うのは、神殿で犠牲を献げる人は献げるに相応しいと祭司が保証した動物を買う必要がありました。更に、神殿では特殊な貨幣しか納入できないので、両替所で換えることが必要だったのです。しかし主はそれらを必要悪としました。神殿は神を礼拝し、祈る為の所であり、商売の家ではないからです。

 そしてヨハネは、イエスが世に来た目的を神殿との関わり中で示します。主は人々の問いに「この神殿を壊してみよ。私は三日でそれをよみがえらせる」と答えました。主は「よみがえらせる」と言いました。それは壊された神殿を元の姿に戻すことではありません。その神殿は46年掛かって建てたとあるように壮大華麗な建築物でした。ヘロデ大王が神を礼拝するに相応しいものとしてこれを建てた物です。確かに、人々は礼拝し、祈る為にここに来ました。しかし、彼らは神を敬い、神の民であることを感謝して神殿に来るというより、ここに来て献金し、犠牲を献げれば、神に喜ばれ、自分が平安な生活が出来ると思うから来ているのです。今や彼らは形式だけの礼拝者になり、神殿の境内は彼らの必要に応える為の商売の家になっていたのです。

 しかし、神が求めるのはそのような礼拝者ではありません。真の礼拝者達、御霊と真理によって礼拝する人々を神は求めています。主がこのような暴力行為とも見えることをしたのは、神殿はそのような気持ちで礼拝する所でも、自分達が満足し、安心する為に来る場所でもなく、このままでは彼らが神の民でなくなってしまうことになるから、彼らを神殿から追い出したのです。

 この後、主はサマリアの女性との対話の中で「まことの礼拝者達が御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人達を、ご自分を礼拝する者として、求めておられるのです」と教えました。イエスがいる今がその時とヨハネは教えます。しかしユダヤ人達も弟子達も、この時はこの言葉の意味が分かりませんでした。私達は、神が霊であることを知っています。ですから、目に見えないけれど共にいると信じ、礼拝しています。でも、御霊と真理によって礼拝しているでしょうか。主は復活して主キリストとしてここにいます。これは霊的現実です。主の眼差しを感じていますか。主が共にいるからこそ、主の恵みを受け、将来に希望を持って生きられるのです。人の内に何があるかを知る主は、私達が真の礼拝者になるよう求めています。主は宮清めをして、神殿で礼拝する人々に変わらなくてはならないと教えました。主は私達を変える為に世に来ました。主の御心に応え、新しい人として、御霊と真理によって礼拝する私達になりましょう。