メッセージ(大谷孝志師)
生と死を支配する主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年11月14日
マルコ5:35-43「生と死を支配する主」 牧師 大谷 孝志

先週礼拝後、落井ジェルマ姉の三ヶ月記念式をした。人は主に命を与えられ、主が定めた時に、この世での生涯を閉じる。主イエスを信じ救われた人は、この世ではもう会えないが、主の御許に召され、そこで会える。死で終わりではない。

 今日の個所で、主は完全に死んだ女の子を生き返らせる不思議な力を示した。しかし、死んで四日目に墓から出てきたラザロ、棺に入れられ、担ぎ出されていたナインの町のやもめの一人息子、そしてこの女の子も復活ではない。聖書は、復活は霊の体でよみがえると言い、彼らの場合は、起き上がる、出て来ると言う。死んだ状態から生きた状態になることを意味する。しかし素晴らしいことに変わりは無い。愛する人を失った殆どの人が祈り求めても聞かれなかった事。しかし、主イエスはいとも簡単にしている。これ迄の経験から主イエスが本当はどんな方なのか分からなくなってしまったことが正直言って何度かあったのは事実。

 有る母親が「家の娘はとても正直で『お前の肩には仏さんが乗っていて、お前をいつも見ているから、人が見ていないからと悪い事をしたら駄目だよ』と言うと真剣に聞いてくれる」と言った。私が「主イエスはよみがえっていつも叔父さんと共にいる」と言ってもピンとこなかった。逆に「お前も仏壇に手を合わせてごらん。気持ちがすっきりするよ」と言われた。仏さんの実態や存在の証明などはどうでも良いらしかった。友人に天地創造や処女降誕の話をしたら、そんな馬鹿らしい事を信じているのかと一笑に付された。福音宣教の難しさを思う。しかし主は、人々に嘲笑われても、死んだ子の所に行き、彼女を生き返らせた。事実が人々を納得させた。私達の周囲の人々の中には自分は無宗教だと言う人がいる。でも何かを信じ、何かが起きると縋る思いで、宗教に入る人もいる。人は一人で生きられず、また、人生に漠然とした不安を感じながら生きている。主イエスはそれに答えを与える方。それを世の人に明らかにするのが教会の使命。

 主は会堂司のヤイロに、娘が死にかかっているので、救われ、生きられるようにしてと頼まれ、出掛けた。しかし、家から来た人々が会堂司に娘さんが亡くなったので、先生を煩わせることはないと言う。主はそれを無視し「恐れないで、ただ信じていなさい」と言い、娘を生き返らせた。それが私達が信じている主。

 主イエスは、人が持つ生と死についての思い煩いの外に立っているのを知る。主は娘の死を知った彼に「恐れないで」と言った。何故「悲しむな、嘆くな」ではなかったのか。彼が嘆き悲しむなら、彼の思いは亡くなった娘に向き、主から目は離れ、彼の心には恐れが生じるから。湖上を歩いて主に向かっていたペテロは、主から目を離し、荒れ狂う波を見た時、恐ろしくなり、沈み掛けた。人は主から目を離すと、希望を失い、恐れが生じる。親は主に望みを掛けていたから主の許に来た。その望みを捨ててはいけないと言った。主は娘のいる部屋に入り、その子の手を取って「タリタ クム」「娘よ 起きなさい」と言う。彼女は直ぐに起き上がり、自分の力で歩き始めた。主は御言葉で人が自立できるようにする方。

 主が共にいる世界では、死は決定的なものではない。主は生と死を支配し、自立した人として私達を生かす方。この世の命は人が一時的に持つものに過ぎない。人は必ず何時かは死ぬ。しかし「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることがない」。主は永遠。主の御心は私達が生き生きとこの世に生きること。生と死の煩いから解放され、一日一日を主と共に生き生きと生きる者になろう。