メッセージ(大谷孝志師)

光り輝ける私達
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年11月21日
聖書 ピリピ2:12-18「光り輝ける私達」  讃美と証の礼拝

 この手紙を読むと、パウロとピリピ教会はとても親密な関係だったことが分かります。彼はこの教会の人々の信仰生活を知り、深い信頼を置いているからです。しかし彼はこの中でも、他の教会と同じように、多くの勧めをしています。彼らにも変わって欲しいと思う所があり、変わることを望むからです。そして彼らは変わることが出来るからこうして欲しいと勧めているのです。何故でしょうか。彼らも人間の群れであり、彼らの中にも福音の前進、教会の主にある成長を阻もうとするサタンの誘惑に負ける人もいるからです。

 彼は、恐れおののいて自分の救いの達成に努めよと言います。しかし皆さん、人に自分の救いの達成が出来ると思いますか。この中に、今の私の生き方で主に喜ばれると胸を張って言える人が何人いるでしょうか。殆どの人は、主になすべき事を、御言葉により示されても、出来ないと思ってしまうことが多いのではないでしょうか。ピリピ教会の人々も、パウロがいる時は、彼がいると思うと、御言葉に従順でいようとの思いを強くし、行えたようです。でも、彼は巡回伝道者なのでいつもいる訳ではありません。今、パウロはいないので、彼らの気が緩んいるようだと知らせる人がいたのです。それで彼は、私がいない今は尚更、自分達が信じている主に従順になれと書いたのです。彼れらに出来る力、意志の強さがあるからではありません。彼らが、神を信じ、主イエスを信じて救われ、神の子となる資格を与えられ、キリストの体である教会の一員だからです。主がさせて下さると信じるからです。その信仰に立つことが大事です。それにより教会が豊かに成長するからです。

 その為に、私達も自分の信仰生活を顧みましょう。そうすれば、神が支配する世界に神と共に生きていると実感できます。神は私達にとっても「御心のままに、私達の内に働いて、志を立てさせ、事を行わせる方」なのです。しかし、神がこの世界を支配し、御心のままに全てを行っていると信じていても、自分の思いや望みとかけ離れているなと思ってしまうことがあります。すると、不平不満が出て来ます。もし逆だったりすると、これは御心では無いと思ったり、神に背を向けたくなることもあるのではないでしょうか。それでは神に喜ばれる教会ではなくなってしまいます。パウロはピリピ教会にもその兆しを感じ取ったのです。ですから「全ての事を、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」と命じます。それには神が私の内に働き、私がしようと思うのではなく、神が私にしようと思わせていると信じることが必要です。

 さて、信じるとは自分の意思でする行為であり、自分の外の世界、そこにいる人に大きな影響を与える行為です。勿論、神が私にさせた証拠は私の内にもありません。そして信じるとは、自分の過去の経験から得たもの全て捨て、これを御心と信じ、全てを神に委ねて行うことです。信仰は心の動きだけではありません。行いに現れてこそ、私達の信仰は生きた信仰となります。神は、自分の信仰を行いに現せるまでに信じ切る私達を喜んでくれます。そして、神は私達の心の深みまで知り、私達が望む事を実現してくれるのです。

 人は迷い悩みながら、自分で進むべき道、なすべき事を選択しながら生きています。後悔先に立たずと言います。先の事は誰にも分からないので、後悔しないよう、熟慮し、決断して行おうとはしています。後悔したり、他人に嫌な思いをさせたくないと思うからです。それでも、間違いと分かって、後悔することもあります。また、言葉の行き違いや言葉が足りなかった為、周囲に迷惑を掛ける結果になることもあります。ですから、誰にも非難されずに生きられたら本当に素晴らしいとは思います。でも無理です。人は誰もが曲がった邪悪な時代のただ中にいるからです。人の事より自分大事になるからです。自分さえ良ければよいので、どうしても自己中心的生き方に囚われ、人を傷付け、自分も傷付け易いのです。してはいけない悪い事と分かっても、世の風潮に流され、歩むべき正しい道を見失うこともあるからです。

 だからパウロは正しい道を見失わずに生きたいと思うなら、「傷のない神の子ども」となれば良いと言います。人は皆親の子供です。親の性質、資質を受け継いでいます。同じように人は神の子供になれます。聖書は、人間だけが神にかたどって造られ、命の息を吹き込まれたと教えます。人だけが神の性質、資質を与えられているので、神の子どもになれるのです。でも、人は罪を犯しました、エデンの園を追放されました。人が神との親子の関係を断たれたことを聖書はそう表現しています。人の方からはその関係を元に戻せません。ですから神は、御子である主イエスを世に遣わし、御子を信じた人に、神の子供となる特権を与えた(ヨハネ1:12)のです。ですから主を信じて救われた人は、子が親に呼び掛けるように、神にお父さんと呼び掛けられます。それが出来ても、人である私達には、神の姿も神の声も分かりません。しかし私達は、内に聖霊という助け手を与えられています。パウロはローマ8:14で「神の御霊に導かれる人は皆、神の子供です」と言います。だから聖書を通して知らされる御旨を悟れます。祈りにより御心を知ることもできます。

 私達が以前はそうだったように、世の人々は主の十字架の死と復活により、救いの道が開かれているのを知りません。福音を信じ、救われ、神と共に生きることがどんなに素晴らしいかも知りません。サタンが人々の心の目や耳を塞ぎ、福音を分からなくしているからです。だから、神が救われた私達をその世の人々と一緒に生かしているのです。世の人々に、世の光として輝く私達が必要だからです。でも世の光として輝くには、主が捨てよと命じる罪を捨てなければなりません。ですから「いのちのことばをしっかり握れ」、主のみ言葉を自分の心に蓄えなさい、そうすれば「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従い」彼らの間で、世の光として輝けるから、と彼は教えます。

 自分の知恵と力、経験に頼っていくら努力し、労苦しても「光り輝ける私達」になれません。「自分を捨て、自分の十字架を負って」主に従いましょう。そうするなら、キリストの日に安心して御前に出られます。でも、それは殉教者の道。パウロが先ず世の光として輝いて、喜んで歩いていた殉教者の道です。彼は「私と共に喜んで下さい」と言います。私達も世の光として人々の間で喜んで輝きましょう。それが私達自身と世の人々に必要だからです。