メッセージ(大谷孝志師)

神に疑問をぶつけた理由
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年11月28日
聖書 エレミヤ12:1-6「神に疑問をぶつけた理由」

 今日から待降節・アドベントに入ります。今は、ご自分を信じる全ての人が永遠の命を頂き、神の子供となる道を開く為に世に来られた主イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスを迎える準備の時です。今日はエレミヤが神に疑問をぶつけたことを通して、主の降誕が必要だった人々の姿を学びます。

 14節に「主はこう言われる」とあるように、エレミヤは私達には全く出来ない神の言葉を直接聞く関係を、神に与えられています。彼は、生きている中で様々な疑問が生じると、神にこうではないかと神と論じ合います。神が彼に、直接人の言葉で答えたのか。神が彼の心の内に思いを起こさせ、それを彼が神の言葉として受け止め、神が言った事として書いたのか、人である私達には分かりません。しかし13:2に「私は主の言葉どおり、帯を買って、腰に締めた」とあるように、彼は神の明確な言葉を聞いて、それに答えています。旧約だけでなく、新約のペテロとパウロにも同様の事が起きました。私達は、エレミヤが神と対話し、神が御心を彼に明らかに示し、彼が御旨を悟れたように、御霊が聖書を通して私達に語り掛けている御言葉に耳を傾け、そこに明らかにされている神の御業、御心をしっかりと心に留めましょう。

 エレミヤは1節で「なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか」と神に尋ねます。私達も、主を信じていない人が、真の神を信じる人以上に充実した豊かで幸せな生活をしているのを知り、主を信じても信じなくても同じなのかと思うことがあります。イスラエルの人々は神の民でありながら、神に背を向け、反抗していました。でも、自分達は神殿や会堂に来て神を礼拝し、神の恵みを戴き、自分達は祝され、栄えているように思い込んでいます。しかし、傲慢で高慢な心のまままで、内面が荒れ果てていたのです。だから神は、そのような彼らを見て、彼に厳しい言葉を告げさせました。でも神が彼らを愛し、ご自分の許に立ち帰らせようとしているのです。彼は預言者と言えども感情を持つ人間です。いくら御言葉を告げ続けても民は頑ななままなのですが、その民は兎も角として、彼らを放置しているとしか思えない神に我慢できず、彼は怒りを込めて疑問をぶつけたのです。

 自分が御言葉を告げても、彼らが頑ななままなのは、神は何もしないからです。好き勝手にして大丈夫と、御心を勝手に解釈し、神が祝福し、豊かで満ち足りて生活をさせていると思い込んでいるのです。彼は耐えきれず、彼らを、屠られる羊のように、引きずり出し、殺戮の日の為に取り分け、この民を滅ぼしてと、神に自分の思いをぶつけたのです。しかし、彼はそこで一歩引き下がります。神を見詰め、自分を見つめ直したのです。そして、神が自分をこのような民の現実に立ち向かわせたのは、自分を試し、神に真実である為には、どうあるべきかを考えさせる為だったと、彼は気付きました。

 エレミヤは直接神と対話できました。神に疑問をぶつけて、答えを得られます。彼は、神が正しい方なのは分かっています。しかし神が行う事で自分に正しくないと思う事が。神の正義と自分の正義が違うからだとは思います。

 しかしその彼でも、神がしている事は間違いとしか思えません。神が全ての事に絶対的存在と認めていても、疑問を持たざるを得ない彼は、神は何故この現実を放置するのかと尋ねます。私達は彼のように、神と直接交信できません。ですから、御霊が私達の思いを神に届けると信じ、神に祈りつつ、神が出来事によって応えてくれるの待つだけです。遅い或いは納得できない結果になっても、神に何故かと呟くことしかできません。でもその一方通行を諦めていないでしょうか。彼に出来たことは私達にも出来ます。私達にはは、御霊という助け手が与えられています。その事を心に刻んでいましょう。

 エレミヤは、神の民である彼らがご自分に立ち帰り、豊かな恵みの受け手となって、喜び、平安に過ごす民となるよう神が望んでいると知っています。しかし、民はいつまで経っても神に立ち帰ろうとしません。自分達は平穏で、生きるに必要十分なものがあり、今の生活に満喫しているからです。しかし現実は、富んでいる者もいれば貧しい者もいます。殆どの人が、他人がどうであれ、自分さえ良ければ良いのです。他人の悪事で他人が苦しい状態に陥っても、その人同士の事で自分に関係ないと放っています。その現実は今もあり、私達はその中に生きています。それは神の御心ではありません。神は互いに愛し、支え合い、共に生きる者として人を造りました。しかし破綻した人間関係の中で仕方なく生きている人が殆どです。人々は神が与えた人にしかない資質を見失っています。エレミヤは、御心から遠く離れているその民の現実に立ち向かい、彼らが神の民本来の姿に戻るには、彼らとの厳しい戦いに耐え、勝ち抜かなくてはならないと知っています。何故なら、神は民の現状にも拘わらず、神に立ち帰るなら、神の民として受け入れ祝福するし、彼らが聞き従わなければ、根こそぎ滅ぼす方であると知っているからです。

 そこで神は、神と民との間に立ち、彼らに御言葉を伝えるのは、徒歩の人と競争しても疲れる者が馬と走り競い、平穏な地に生きていた者が危険な密林で生きるような事だと知れと彼に言います。彼が民との厳しい戦いに勝つ為に、彼が疑問を感じ、納得できない事柄を彼の前に置くからだと教えます。その局面の中で、それでも尚、自分が全てを神に委ね、神の御心を誠実に行う者であり続けるか、自分の心を試させていると悟りました。私達も先ず、神は正しいと認める事が大切です。神が理不尽と感じる時があります。その時に、悪の力との福音宣教の戦いを勝ち抜けるよう、私達が自分を捨て、神に全てを委ね、自分を神に与え切る者となる為に、神が必要な試練を与えている時なのです。だから御霊が私達を助けます。私達は、世の人々が神の存在と愛を知り、本来の人の姿を知って、互いに愛し、支え合えい、幸いな人として生きる者となる為に、世に遣わされているからです。私達は勝てます。

彼は預言者として人々に御心を知らせ続け、その中で、悪を行う者が平穏に生きる現実に我慢できず、神に疑問をぶつけました。それは神が与えた試練の時でした。私達も世の人々に 福音を伝える中で、神に疑問を抱き、葛藤する時があります。それは神に心を向け直させる試練の時と知り、ただ神を信じ、神に全てを委ね、自分が正しいと信じる事をする者になりましょう。