メッセージ(大谷孝志師)
祈りによらなければ
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年11月28日
マルコ9:21-29「祈りによらなければ」 牧師 大谷 孝志

 今日からアドベントに入り、今年も残りは後一年になる。コロナ禍の中、様々な制約を受けたが、「感染させない、感染しない」を心にして、礼拝と集会を守り続けてこられた。感謝。しかし中には、自分の能力の限界を感じさせられた方がいるかも。主が共にいると信じていても、主の姿は見えないし、声も聞こえない。自分の知恵と力に頼る以外にないのかと、気持ちが沈み易いのが私達人間では。

 しかし、主は見えなくてもいつも私達と共にいる。そして限界を思う所を超えさせる方。どうしたら限界を超えさせて貰えるかを、今日の箇所を通して学ぶ。

 主イエスと三人の弟子が山に登っている間に、残された弟子達は難問に直面していた、ある人が汚れた霊に憑かれた息子を、主イエスにいやした貰おうと連れて来た。しかし彼らには癒やせなかった。主の一行が山を下りてきた時、その事で論じ合っていた。弟子達の無能さは、主イエスの無能さの証明と律法学者達が主張し、弟子達は自分達に出来なかっただけで、主には出来ると論じ合っていた。

 主イエスを信じていても、他人や自分が困難な状況に置かれると、主に呟くことがある。主は全能者で、万事を益とする方なのに何故と。それは人に不可能な事が主にも出来なかったと主を疑っているのと同じ。そう、この律法学者と同じ。

 しかし弟子達は、本気で主なら出来ると思っていただろうか。主と共にいて、主が悪霊を追い出すのを見たし、派遣されて自分達も悪霊を追い出してきた筈。でも私達も、主イエスを信じているなら、何でこんな事になるのかと言われ、動揺したことはないか。主イエスの19節の怒りは、明らかに弟子達に向けた怒り。弟子達の心に、主が与えた権威で何故、この子を癒せなかったのかとの思いがあるのを、主が見抜いたから。何故彼らは癒せなかったのか。主に権威を与えられた自分を権威有る者と錯覚、自分が主イエスになったつもりになってしまったから。彼らがではなく、主イエスが全能。 主は父親の願いに応えこの子を癒やした。その後、何故自分達には癒やせなかったのかと聞く彼らに「この種のものは、祈りによらなければ追い出せない」と言う。彼らが祈らずに癒やそうとした筈はない。しかしその祈りが信仰抜きの祈りだった。主に祈るその人が癒すのでなく、その人が祈り願う主がする事。言い換えれば、祈れば出来る筈と考えず、祈るならして頂けると一歩下がることが必要。自分がするとの思いを捨て去れば良い。

 父親は、何故主の所に連れて来たのか。彼は「おできになるなら」と言った。彼が「藁をも掴む思い」で来たことが、その言葉に滲み出ている。しかし「私達を憐れんで助けて」と言う。彼は子の苦しみを自分の苦しみとして味わい続けてきたと思う。そして祈り続けてきたと。それでも願いが実現しなかったのは、自分に足りないものが有ったからと彼は知ることになる。主は彼に「信じる者には、どんな事でも出来る」と言う。この信仰が足りなかった。彼の目の前には「求めなさい。そうすれば与えられる」と言う全ての不可能を可能にする主がいた。

 私達が願う事は自分の能力を超えたもの。自分にはどうにもならないから願う。しかし叶わないとすれば、自分や相手の力が不足しているからでも、主に力が無いからでも無い。自分は信じて祈っているのにとの思いが主の力が働くのを拒んでいるからと、聖書は教えている。主イエスは全てを可能にし、実現する方と先ず信じよう。その事を真剣に信じて祈ろう。人には出来ないが、神にはどんな事でもできる。主は祈りに応えると信じ切ろう。主は祈りに応え、必ず実現する方。