メッセージ(大谷孝志師)

マリアへの受胎告知
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2021年12月5日
聖書 ルカ1:26-38「マリアへの受胎告知」

 今はアドベント、待降節、イエスの降誕を待祝うクリスマスを望む時です。日本人の殆どがクリスマスという言葉を、イエス・キリストという名前を知っているのではないでしょうか。イエスの母はマリアと言うことも知っていれしょう。マリアの母としての労苦は大変だったと思いますが、人が後世にその名を残すのは大変なことです。豊臣秀吉、野口英世、田中角栄、美空ひばりにしても母の力は非常に大きかったと言われます。しかし彼らの名前は知っても、その母の名を知らない人は多いと思います。ですから、マリアが主イエスの母と知る人が多いというのは素晴らしいことです。今日は、そのマリアの信仰を通して、主イエス生まれたことの意味を学びましょう。

 主イエスが生まれる前後の様子は、四福音書の内、マタイとルカが記しますが、両者に共通するのは両親の名がヨセフとマリア、誕生地がベツレヘムという町だけです。マタイは、父となるヨセフへの告知。ヘロデ大王の言動と大きな星の出現、東方から来た博士達の来訪とエジプトへの避難、更に、ヘロデによる幼児大量虐殺と大王の死後のナザレへの帰還が記されています。 ルカは、主の先駆者となるバプテスマのヨハネ誕生物語、マリアへの告知、ヨハネの母エリサベツのマリアへの祝福、住んでいたナザレからベツレヘムへの旅、宿屋以外の場所での出産、羊飼いへの御告げ、彼らの来訪を記します。特にルカは主イエスの出産前後の様子を詳しく記しています。彼女はガリラヤのナザレに住む処女です。ダビデの子孫で、ベツレヘム町出身のヨセフの許嫁でした。ユダヤでの許嫁の意味を理解すると、この受胎告知が如何に衝撃的だったか分かります。ユダヤでは、花婿側が花嫁側に花嫁の代価を渡すと婚約が成立します。一年間彼女は父の家で過ごし、その期間が終わると婚礼をし、夫婦としての生活が始まります。婚約は結婚と同じ重さを持ち、婚約女性の不貞行為は姦淫と同様の罪とされ、処刑されることになります。

 マリアの「私は男の人を知りませんのに」という言葉は、婚約し事実上の夫婦ですが、今もこれからもまだ処女のままでいなければなりません。純潔を保たなければ石打ちの刑になるのに、妊娠すると告げられたのです。彼女の衝撃は相当のものだった筈です。しかし彼女は、その言葉を御使いガブリエルから告げられたのです。神は今も様々な方法で私達に語り掛けています。人と御使いは違います。しかし人や聖書から聞いた言葉をに驚きを感じたら、神からの言葉として心で受け止めることが大事です。それにより、私達の人生は大きく変わります。彼女は心で受け止め、その意味を思い巡らせました。

 御使いガブリエルは最初に「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言いました。誰でも初対面の人にこんな挨拶をされたら面食らいます。ですから彼女もひどく戸惑って、何の挨拶かと考え込みました。それに、ユダヤでは御使いが女性に語り掛けることは希でした。しかし御使いは続いて「恐れることはない。マリア、あなたは神から恵みを受けた」と言い、私が来たのは、御心なのだから安心しなさいと言ったのです。

 御使いは2:10でも羊飼い達に同じ言葉で語り掛けています。彼らの場合は非常に恐れたので、「恐れるな」と言ったのは当然でした。しかしマリアの場合は戸惑い、考え込んだだけです。それなのになぜ「恐れるな」と呼び掛けたのでしょう。この後、マリアが経験する事の大きさと不思議さの故でした。

 彼女まだ知りませんが、彼女は、神の恵みにより男の子の母となることは、神の独り子、全ての人の救い主となる我が子の母となることなのです。それは、神殿で、両親に連れて来られた幼子イエスを抱いたシメオンが「この子により、あなた自身の心さえも貫かれることになる」と言ったように、大きな悲しみと世の人々の好き勝手な言葉を浴びせられる中で、主の母として生きなければならないマリアへの慰めに満ちた力強く、暖かい言葉なのです。

 そして御使いはこれから彼女に起きる事を告げます。「見なさい。あなたは身籠もって、男の子を産みます。その名をイエスと名付けなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼に父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません」と。例えそうであっても、彼女にとって自分が婚約中に妊娠するのは想像も出来ないだけでなく、有ってはならない事です。

 ですから御使いは彼女に二つのしるしを示し、必ずそうなると言います。一つは彼女に起きる目に見えないしるし、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力が、あなたを覆う」というしるしです。神は全能であり、無から有をみ言葉によって創造するという事が彼女に起きるのです。二つ目は、彼女がよく知っている親類のエリサベツに起きている事です。彼女は不妊と言われていたのに妊娠し、もう六ヶ月という目に見えるしるしです。御使いは、最後に「神にとって不可能なことは何もありません」と明言します。彼女はそれを聞き、「私は主のはしため(女奴隷)です。どうぞ、あなたのおことばどり、この身にますように」と答えたました。彼女は御使いに言われ、必ずそうなるのであれば、仕方がないと覚悟を決めてそう言ったのではありません。主は私達を含め全ての人の心を知っています。彼女の全ても知っているのです。彼女が、自分は主の僕と自覚していると知っているからこそ、十字架に掛かって死ぬ為にこの世に来る救い主の母となる大切な使命を与えたのです。

 マリアは御使いが去ると、既に六ヶ月の身重になっているエリサベツ所に行きます。彼女はマリアの挨拶を聞くと聖霊に満たされて、大声で叫びました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」と。

 主は、私達をこの教会に招き入れ、主のものとしています。主は私達一人一人をご自分の体であるこの教会に必要な部分部分として必要としているからです。礼拝に出席するという奉仕、自分に出来る事があると気付いたら、それをする奉仕、その役割を果たして欲しいと頼まれる奉仕、様々な事を、主はその人に出来ると知って、果たすべき使命を与えています。マリアが自分は主のはしため、つまり主の僕を自覚していて、主の召しに応えたように、主の僕となりましょう。主を乗せてエルサレムに入った子ロバのように、主が入り用としている私達です。主の召しに応え、幸いな人になりましょう。