メッセージ(大谷孝志師)
栄光に輝く救い主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年12月19日
マルコ9:2-8「栄光に輝く救い主」 牧師 大谷 孝志

 朝のクリスマス礼拝では「奇跡の体験者に」と言う題で説教した。飼い葉桶に寝かされた嬰児が、全ての人の救い主だと御使いが羊飼い達に告げ、天の軍勢が神を称え、この嬰児が「栄光に輝く救い主」と明らかに彼らに示した。主イエスは、貧しい大工の子として生まれ育ち、早くに父を亡くし、一家の大黒柱として一家を支えていた。主は三十歳半ばで、公生涯と呼ばれる神の国の福音を宣べ伝える生活に入った。それは十字架の死と復活への道。ペテロは主の弟子として共に生きる中で得た確信に基づき、8:28で「あなたはキリストです」と告白した。しかし主が多くの苦しみを受けると告げると、そんな事を言ってはいけないと彼は主を叱る。ペテロにしてみれば、父なる神に願い、様々な奇跡を行う主イエスが、ユダヤの指導者達に捨てられ、多くの苦しみを受け、十字架に掛かって死ぬということは考えられない事だったから。しかし主に「下がれ、サタン」と叱られてしまう。主が特別な人と分かっていても、彼は自分が信じる像に主イエスを当て嵌めてしまったから。私達も同じような事をする弱さを持っている。

 主はペテロを始め、弟子達がこの後、ご自分の証人として、あらゆる国の人々に福音を伝える務めが与えられると知っていた。だから彼らに特別な経験をさせる為に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子達を選び、ピリポ・カイザリアの村々の北にそびえ立つ2,815mのヘルモン山と考えられている高い山に登った。そこで、主は隠されていた栄光に輝く神としての姿を、師である主イエスと彼らに分かる姿で弟子達に現した。そしてそこに預言者を代表するエリヤと律法を代表するとモーセも現れ、主イエスと語り合った。エリヤは生きたまま天に挙げられ、モーセは目も霞まず、気力も衰えないまま死んだと聖書に記されている。

 主が栄光に輝く姿に変わり、二人と語り合ったのは、主イエスが永遠に生きる主であることを彼らに示す為。御使いは飼い葉桶に寝かされた嬰児がご自分の民をその罪から救う救い主だとヨセフに告げた。羊飼い達は御使いに知らされて、東の国の博士達は星に導かれて、主イエスを礼拝した。彼らは知らされ、導かれたから、主を礼拝できた。同じように、私達も聖書と聖霊の導かれて、主イエスに会えている。

 勿論、肉眼では復活し、臨在する主イエスを見ることはできない。しかしヨセフもマリアも羊飼い達も、神が共にいるのに気付かなかった。神が自分達を用いて、救いの御業の一端を担わせようとしていると分からなかった。しかし、神は御使いを遣わし、御心を示した。山上にいた弟子達も同じ。彼らは主イエスに従って旅をしていた。しかしこの方が人でありながら神であると判らなかった。自分達なりに主イエスを評価をしていた。

 私達も聖書を読み、祈り、信仰生活をしている。でもこの弟子達のように、自分の考えの中で主イエスのことを考えていないか。クリスマス、主イエスの降誕を喜び祝った。金曜もイブ礼拝で静かに主の降誕を感謝する。でも栄光に輝く主が私達と共にいて、私を見守り、愛し、包み込んでいると判っているか。目に見える主イエスが共にいるのに、インマヌエル、神が私達と共にいるしるしの主イエスが共にいても、神が共にいると判らなかった弟子達と同じになっていないか。主は、山上で神の栄光に輝くご自分の真の姿を彼らに見せたように。栄光に輝く主の姿は目には見えないが、主が共にいる喜びを私達の心に湧き上がらせる。主はインマヌエルのしるしだから。クリスマスに始まるこの一年を、主と共に力強く、一人一人と共に歩んで行こう。