メッセージ(大谷孝志師)
順境の時 逆境の時
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2021年12月26日
ヨブ5:17-27「順境の時 逆境の時」 牧師 大谷 孝志

 人生、生きていれば順境の時もあれば逆境の時もある。その人の真価が問われ、真価が明らかになるのは逆境の時と言われる。ヨブは突然逆境に立たされた。

 彼は全てに恵まれ、主の豊かな祝福を受けて日々を過ごしていた。しかしある時、凄まじいばかりの災難が彼を襲い、子供達が殺され、全ての財産を失った。更に、彼の体中に悪性の腫れ物ができた。その悩みと苦しみは非常に大きかったにも拘わらず、彼は主を呪わず愚痴も言わなかった。しかし彼は、自分の生まれた日を呪い、何故、生まれてすぐに死ななかったのかと嘆く。死にたいと願うが、決して自殺は考えない。私を殺してと主に訴えるだけ。彼は生も死も主の御旨によると知るから。祝福を与えるのもこの災いを下したのも主と知るから。

 私はクリスチャンになって60年。幾つになっても主を試みてしまうことが多い自分を感じる。子が親の愛を確認したくて、わざと悪い事をし、これくらいは大丈夫かと親の反応を探る。それと同じ様なことを主にしていたような気がする。ヨブとは違い、一人っ子の私は余りにも順境に置かれていたからかもしれない。しかしクリスチャンになると、正直、主が恐ろしい存在と感じるよぅになった。でも怖いことは怖いが、自分の行いを主は見ているなら、なんで直ぐに滅ぼさないのか。主は本当に一緒にいるのだろうかと考えもした。神学生だったのに何故と思うかも知れないが、その葛藤の中に流れていたのは、自分の信仰についての自信のなさだったと思う。主の御旨を疑わず、どんな事でも主に任せられる信仰者になりたい、若い頃はそんな気持ちが出ては消えしていたのだ、と今は思う。

 ヨブは順境の時も逆境の時も主の前に正しい信仰を持ち続けようとしている。自分には分からない事を受け入れ、主を疑っていない。確かに理由が分からない災いに直面しているが、主の内に理由があると信じ切っている。これは大切な事。

 では何故、ヨブは激しく嘆くのか。主が自分に災いを与え、彼はそれに耐え切れず、死を願う程に激しい悩みが自分を襲うから。その中で彼は主を信じ切る。逆境の中でも順境の時のように主を信じ、主に任せる。私も逆境に置かれた事が。考えてみると、逆境の中でこそ、主を主として信じ、委ね切ることを学んだ。このヨブの生き方に若い頃、五里霧中の中で求めていた信仰を見たような気がする。 

 友人エリファズは、ヨブに下された災いは彼が気付かずに犯した罪への裁きだと言う。確かに人は御前に正しく清くは在り得ない。だから悔い改め、自分の不義を自覚し、主の怒りに曝されている自分に気付けと迫る。彼には、ヨブは傲慢にしか見えない。しかし、私達も彼のような考え方に陥る時がある。実はその時、主を主とせずに、他人対して自分を主としていることに気付くべき。

 ヨブ記の最後で、主がエリファズら友人達に怒りを発する。その大きな理由の一つがそれ。人生、生きている限り人は悩み苦しむ。しかし主は一人一人を愛し、養い育てているとの確信を持つことで、人はその中で最善の道を見出せる。悩み苦しみの真の原因はその人の内にある。誰もが罪を持ち、清められなければならないものが。人が逆境に陥るのは主が人を御自分に相応しい者とする為と知ろう。

 人の目に、順境や逆境に映る時はある。しかし、その全ては「主が共にいる時」。順境は楽しく嬉しい、逆境は辛く悲しいが、人生は自分のものでではなく、主のもの。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの。」どんな時も主が最善をなし給うと信じ、安心しよう。その信仰を頂いているのだから