メッセージ(大谷孝志師)

真の宗教心を持つ
向島キリスト教会 クリスマス聖日礼拝説教 2022年1月2日
聖書 使徒17:16-21「真の宗教心を持つ」

 礼拝に来た皆さんは「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶をしました。しかし私達は、年が変わったから、おめでたい状態になるのではありません。実は、私達はいつもめでたい人間なのです。と言うと「私もですか」と不満そうに言う人がいるかも知れません。「おめでたい人」は余り良い印象を与える言葉ではないからです。でも私達は、主がその日その日を常に新しく与えてくれていると知っている筈です。私達にとっては大晦日と元旦には何の違いもありません。確かに子供の頃、元旦に荒川放水路の土手に登り、父に言われ、日の出に手を合わせてから、おめでとうと挨拶しました。しかし私達は今、太陽の光以上に、主イエスが全ての人を照らす真の光として輝いていると知っています。その主を信じ、毎日を新しい日として与えられ、喜んで生きているので「私達はいつもめでたい人間」と言ったのです。

 とは言え「物事全て改まる新年」は、やはりクリスチャンにとってもよいもののは確かです。「後悔先に立たず」と言うように、誰でもこの世に生きている限り、消したい間違いはかなりあると思います。新年という区切りがついたとの思いによって、何となくホッとし、気持ちを新たにできるからです。

 さて、三が日、多くの人々が神社仏閣に初詣に出か掛けています。それにしても多くの神社仏閣があると思いませんか。パウロはギリシアのアテネ市内に入った時、偶像の多さに憤りを覚えました。私達はテレビで多く人々が様々な神社等にお参りするのを見て、憤りを感じるでしょうか。本当は感じなければいけないのに、そこ迄は感じないのが本音ではないでしょうか。だからパウロはすごいと私は思いました。本当はきちんと考えなければいけないのに、私は、あの人達はあの人達と信仰について割り切って考えていたからです。そこまで目くじら目くじらを立てても仕方がないと思ったからです。

 しかし、パウロは我慢できなかったと聖書は私達に教えます。彼は会堂で、ユダヤ人やユダヤ教を信じる異邦人と「あなたがたはこの現実をどう思うか、偶像礼拝者に下る神の裁きを伝えないのか。本当の神はこれらのような偶像ではないと知っている筈ではないか。神はその事を明らかにする為に、主イエスを死人の中から復活させ、主は今も生きて共にいるではないか」と彼らと論じ合い、広場では毎日、イエスこそ死者の中から復活して全てを支配している真の神に他ならないと宣べ伝え、そこにいた人々と論じ合ったのです。

 町の学者達が興味を示し、彼に町の中心広場で自分の主張を言う機会を与ました。彼は先ずアテネの人々の宗教心の篤さを褒めました。上から目線で決め付けず、彼らと同じ土俵に立とうとしたのです。伝道の第一歩がここにあります。世の人々が自分の拠り所を求め神社等に行くことは、それだけの宗教心を持っているからです。それは僅かな隙間かも知れませんが、そこに福音が入り込む余地があると私は思います。彼は多神教の世界に生き、唯一の真の神を知らない人々に、真の神はこんな造り物ではなく、天地万物の創造者のですと異教徒の人々にも分かるような言葉を使って、教えたのです。

 他の神々を信じている人に真の神を宣べ伝えるのですから、それは大変でした。私の伯父は、神棚の前に座り、神に祈ってから仕事に出掛けました。心が清められ、落ち着くと言い、お前もした方が良いと言いました。私は主イエスを信じているから、しなくても大丈夫と答えました。伯父さんも教会に行ってみたら良いのにと言おうと思ったのですが、口に出せませんでした。議論しても平行線になるし、伯父さんが気分を害するだけと思ったからです。

 パウロは、熱意が空回りするのを感じたと思いますが、空しくならず、彼らが主イエスに興味を持つところまで議論し続けています。「継続は力なり」と言いますが、熱心に続けることで活路が開かれていくのだと教えられます。「このおしゃべりは」と思われたり、聞く人々に下らないと思われたら普通は止めてしまいます。しかし彼は、その人々に嫌悪感なしにもっと知りたいという気持ちを起こさせているのです。大したものです。でも、その熱心さと力は彼が持っていたものではありません。全ての人の救い主として生まれた十字架と復活の主が今も生きていると信じる人、全てに与える主の愛と力なのです。それが聞く人々の堅い心をそっと開かせ、扉の内側から、彼が語る福音を覗き見たのです。主の愛と力が、彼を通して人々の心を動かしたのです。私達にもその主が共にいると信じましょう。新たな愛と力を頂けます。

 自分は宗教心が篤いと思いながらも不安が一杯のアテネの人々の心を彼は見抜いたのでしょう。「知られていない神に」と刻んだ祭壇を取り上げ、彼らが知らずに拝んでいる神について教えると言います。彼らはなぜそんな祭壇を作ったのでしょう。初詣をする人の中には、一つの神だけでは不安と梯をする人がかなりいると聞きます。この神社に来れば、多くの神を拝んだのと同じ御利益があるとする神社もあるそうです。実は、拝んでいる神がどんな神かというより、ただ神というものを拝んで心に平安を感じている人が多いからではないかと私は思います。ですから、何か悪い事が起きると、拝まなかった神に罰を受けたと考えてしまうのでしょう。実はアテネの人々が「知られていない神に」の祭壇を作ったのも、そんな思いを抱いていたからです。

 パウロは彼らに、神という方は金や銀や石、人間の技術や、考えで造ったものと同じと考えては駄目と言います。彼らが拝んでいる「知られていない神」こそが、彼らがまだ知らない真の神で、恵みと平安を与える方ですと教えました。そして「神は、あなたがただけでなく、真の神を知らない人々が、知らなかったことに気付いて、悔い改める、つまり、心の方向を転換して、真の神を信じ従う者となることを望んでいるのです。それが確かな事だと分からせる為に、主イエスを死者の中から復活させたのです。その真の神を信じるなら、恵みと平安が与えられます」と教えました。聞く人達にとっては奇想天外な話です。私達の周囲の人達も様々なものを拝み、頼って生きているので、十字架と復活の主イエスこそが真の神と話しても信じません。彼が心込めて話しても、殆どの人は彼を嘲笑いました。でも僅かでも主イエスを信じて救われた人達がいたのです。彼がローマ10章で言うように、福音を宣べ伝えなければ、救われる人はいないのです。私達も福音を伝えましょう。