メッセージ(大谷孝志師)

水と御霊による新生
向島キリスト教会 クリスマス聖日礼拝説教 2022年1月9日
聖書 ヨハネ3:1-15「水と御霊による新生」

 新しい年2022年を迎え、この一年をどのように過ごしていこうかと心に期する人もいたと思います。しかし先週も触れましたが、歳神でなく、真の神を信じる私達にとって、大晦日と元旦に大きな違いはありません。それに、世の多くの人々も正月に歳神を迎えて祝っている訳でもないようです。でも、どうして年の区切りを付けたくなるのでしょう。それは人は弱いからです。完璧な人間はいないからです。誰でも、自分の弱さや欠点が分かっています。そして、できればそれを直したいと思っているでしょう。でもそれらは持って生まれたもの、長い人生の間に身に付いてしまったものです。そう簡単に取れません。悪い事、嫌な事だと判っていても、してしまう弱さ、止めようと決心してもしてしまう弱さ、その弱さを人なら誰でも持っているからです。

 それに人はもう一つの弱さを持っています。それは、反面強さとも言える弱さです。人は自分の弱さや欠点ばかり意識していると落ちみ、空しさだけが残ってしまいます。だから、普段はそれを考えないようにしています。でもそれが心の底にあるままでは、辛く苦しくなります。それで一年に一度、新年を迎えた時、深く反省して、自分の気持ちを整理し、区切りを付ける日にし、自分自身にとって正しい生き方とは何か、ああすれば善い、こういう事もできるのではと考え、決心する日としているのでは、と私は思います。

 今日の箇所に出てくるニコデモはパリサイ派の一人で、ユダヤ最高法院の議員でした。主は10節で彼を「名だたる教師」と言っています。教師に定冠詞が付いているからです。彼は有名な優れた教師で、聖書に精通し、ユダヤ教徒としての正しい生き方を教える立場にいました。その彼が夜、主イエスの所に来たのです。聖書に登場するユダヤ教の指導者達は、イエスを訴える口実を見つけようと、罠を仕掛けたり、問答を仕掛けていました。しかしニコデモは、真摯な思い、自分にとっての正しい道、生き方を示して欲しいとの思いで来たことが彼の言葉から良く分かります。彼は、聖書を深く読み、自分自身を謙虚に見詰め、神の御前に生きる者としてどうすべきかを悟り、実践するだけでなく、人々に教えていた筈です。それなのに彼は、主イエスの所に来ました。聖書を読み、熟考しても、心から正しいと納得できる答えが見つからなかったのでしょう。しかし彼は、イエスの存在を知りました。

 彼は夜来たと聖書は記します。主が昼間忙しいからでも、指導者としての沽券に関わるからでもありません。聖書が彼が来たのが夜と、その時を特に記しているのは、彼の心が闇の状態にあったことを私達に暗示する為です。ニコデモはユダヤ教の優れた教師でありながらも、主がエルサレムで行った様々なしるしは、神の許から来て、神が共にいるからと知り、真摯な思いで会いに来て、勇気を奮って主イエスに挨拶したのです。しかしその彼への主の言葉にはいかにも唐突な印象を受けます。主は、神の国に入るにはどうしたら良いかを尋ねて来た彼の心の内を見抜いたのです。彼が見聞きした事を自分ので判断している今のままでは、彼は真理を悟れないと知ったからです。

 確かにニコデモの挨拶には、神の国のことをよく知っているとの自信が滲み出ています。それなのに、何故彼は主イエスに、どうしたら神の国に入れるのかを尋ねに来たのでしょう。私も同じような思いになることがあります。頭ではと言うか、道理では分かっていても、心の隅に、納得できないものを抱え、分からなくてイライラしてしまうことがあるからです。皆さんも主イエスを信じ、救われていても、主は何故この状況を放置するのかが分からないと思い、聖書を読み、祈り求めても答えが見付からず、主に尋ねることがあるのではないでしょうか。最初は彼のように真摯な思いでいても、度重なる内に葛藤し、愚痴になったり、不平や不満を抱え込んだりしていませんか。

 主は1章でナタナエルの人となりを見抜いたように、ニコデモの心の内を見抜きました。そして、彼の内に、今のままの彼には解決できない問題があるのを知り「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と教えたのでした。彼も、今の自分では駄目だと気付いたから、主の所に、必死な思いで来ました。人は先ず、自分の知恵で理解しようとします。彼もそうでした。しかし神の国は、神が支配する世界のことです。人が自分の知恵でどう探してみても、この世界を神が支配している具体的証拠はどこにもありません。1:12にあるように、神の子どもにならなければ分かりません。神の子どもになること、それが新しく生まれることなのですが、彼には新しく生まれるとはどういう事なのか分かりません。この世の常識でしか考えられない彼は、人は「もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」と、洞察力も何もない質問しかできませんでした。しかし主はその彼を優しく包み込み「人は水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることできません」と教えます。私達は主イエスを信じ、信仰を告白し、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けて救われ、神の子供になり、神の国に、神と共に生きていると信じています。それでも信仰上の問題で疑問や愚痴が生じることがあります。それは、まだ主イエスを信じ救われていないニコデモが、主イエスがいるここが神の国と分からなかったように、私達も、水のバプテスマを受けた自分が、霊によって新しく生まれた者であることが本当には分かっていないからなのです。水と霊により新生したと実感させて下さいと祈り求めましょう。自分は神の国に今生きていると分かり、心から信じられると、人生観、世界観が大きく変わります。主を信じるとは、両手を広げて下で待つ主の懐に飛び込むことだとある先生が言いました。私達が信じる主は、十字架と復活の主イエスです。私達が飛び込んでくるのを待っています。主は、私達の罪の為に十字架に掛かって死んで復活し、キリスト、救い主として、今私達と共にいるからです。主は11:40で、ラザロの姉妹マルタに「信じるなら神の栄光を見る」と言いました。主イエスは、水と御霊によって私達を新しい人に生まれ変わらせたのです。私達は新しい人として世に生きているのです。復活し共にいる主イエスを信じ、新しい人となった自分を見詰め直し、信じない者でなく信じる者になりましょう。自分が生きる世界に神の栄光が輝いているのを、自分の人生の歩みの中に見ることができます。