メッセージ(大谷孝志師)
心を鎮め御業を想う
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年1月9日
マルコ8:11-21「心を鎮め御業を想う」 牧師 大谷 孝志

 不可能と分かっていても、主イエスに会いたい、主が生きて地上を歩き、様々な御業を行った頃に自分も生きていたらどんなに良かったと思うことはないか。自分に不甲斐なさや限界を感じさせられたりした時、私もこの目や耳で主イエスと直接語り合うことができたらと思う事が度々ある。11節に、パリサイ人が天からのしるしを求めてイエスと議論を始めたとある。イエスが神から遣わされた特別な方であるとのしるしを求めたから。しかし主は「今の時代には、どんなしるしも与えられない」と言い、彼らから離れて行った。どうしても人は証拠を求めたがる。私達も主がここにいて、ご自分が主キリストであるとの証拠を見せてくれたら、もっと沢山の人が教会に来て、主イエスを信じて救われるのにと思う事があるのでは。それはあのパリサイ人達の求めと変わりがないと聖書は教える。

 世の終わりが来て、使徒1:11で御使いが天を見つめていた使徒達に言ったように、主が見える姿で再臨したら、誰の目にもイエスが主キリストであると分かる。しかし同時に、救われる人と滅ぼされる人がはっきりと分けられてしまう。しかしペテロU3:9で彼が言うように、主が「だれも滅びることなく、全ての人が悔い改めに進むことを望んでいる」。だから、一人でも多くの人、特に身近な家族や友人に救われて欲しいと願い、私達を彼らの為の主の証人として用いと願うが、その時、私達の証が事実と主自身が証明してと願っていないか。そこで気付くべき大切なヒントを聖書は与えている。

 主イエスは、七つのパンで四千人の人々を満腹させた後、群衆を解散させ、弟子達と舟に乗り移動した。そこでパリサイ派の人達と議論をした後、再び舟にのって向こう岸に渡った。舟の中で弟子達は、パン一つあれば十分とする主がいるのに、パンを持って来るのを忘れ、舟には一つしか持ち合わせがないことで不安になった。その時、主は彼らに「パリサイ人とヘロデのパン種にくれぐれも気を付けよ」と命じた。パリサイ人のパン種とは世の中の宗教的影響力を、ヘロデのパン種は同じく政治的影響力を指す。人はこの二つに惑わされやすい。私達も世の様々な宗教の影響力、政治力に驚き、キリスト教の小ささに無力さを感じてしまうことがある。弟子達がパン一つしかないことで議論を始めたのも、主イエスが共いるから何の問題もない筈なのに、自分達の力だけを考え、不安を感じてしまったから。その彼らに主は、「何故分からないのか、心を頑なにしているのか」と叱る。そして彼らが経験した素晴らしい出来事、目の当たりに見た奇跡を思い起こさせる。五つのパンで五千人が満腹し、七つのパンで四千人が満腹した奇跡。

 今、主イエスが姿を見せてくれたらと思う時が私にもある、と始めに言った。実は今の私達とこの弟子達は同じなのだと聖書は教えている。それは10:17-で、主が富める青年に言ったように「欠けていることが一つある」から。「心静め御業を想う」時が欠けているから。自分の生活や将来の事に余りにも気を遣い過ぎ、主の御業を見逃しているから。主イエスが今生きて共にいて、ご自身が助け主、救い主であるとご自身を示しているのに、偶然や当たり前の事と見過ごしている。

 聖歌604に「数えよ一つずつ、数えてみよ主の恵み」とある。目があっても見えず、耳があっても聞こえない自分、受けた恵みを直ぐに忘れる自分に気付こう。主は今私達と共にいる。自分と周囲の人々に関わっている。自分の信仰を静かに反省しよう。心を鎮め、主の御業を思い、主を心から受け入れ、従う者になろう。