メッセージ(大谷孝志師)

パウロの優しい配慮
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年1月16日
聖書 ピリピ2:19-30「パウロの優しい配慮」

 パウロは多くの教会に手紙を書き、一部が聖書に残されています。その中でもピリピ教会とパウロは非常に親密な関係があったことが、この手紙を読むと良く分かります。とは言え、この手紙でも彼は厳しい勧めをしています。「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」との彼の言葉に、私は頑張ればできるような気がしました。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」と知っているからです。でも「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」に、いくら頑張っても無理と思ってしまうのは、私だけではないかと思います。では何故、誰が考えてもできそうもない事を「しなさい」という言葉が聖書に書かれているのでしょう。それはパウロが言うように「曲がった邪悪な世界のただ中に」私達がいるからです。しかし私達が生きているこの世の人達は、そんなに悪い人ばかりではありません。むしろ教会の人より優しいな、一緒にいて気が楽だなと思う人もいるのは確かです。しかし世の人と祈り合え、相手の為に祈れる関係になれるかというと、私はそうではありません。相手の言葉や姿勢にどこか打算が入っているという思いを捨て切れないのです。それにこの世では、相手との関係は切れたらそれ迄です。こんなに気遣いや苦労をしたのに、全て無駄だったかと落ち込むこともありました。しかし主にあって繋がっている人とだと、そうでもありません。全ては主の御心と、後の事は主に任せられ、主に期待できるからです。パウロはこの主に在る関係の中にこの教会の人達と自分を見ています。ですから、自分が彼らの信仰の礼拝という生け贄に添えられる注ぎの献げ物になっても、つまり、彼らの為に死に、自分の血が祭壇に流され、命を捨てても喜ぶと言うのです。

 パウロは何故、自分と同じ生き方、同じ他人との関わり方を、この教会の人々に望んでいるのでしょう。この世の人々が、自分達が曲がった邪悪な者として生きているのに気付かないからです。主は世の人々が悔い改めて、主を信じる者になることを願っています。その為に、この教会の人々が彼らの間で、命の言葉をしっかり握り、世の光として輝くことを求めているのです。それによって、人々が主イエスを信じることの素晴らしさを知り、教会に救いを求めて来るようになるからです。だから、この世的には無理としか思えないことを勧めるのです。例え、どんなに無理に思えても、ロマ10:9-15で彼が言うように、宣べ伝える者、世の光として輝く人がいなければ、世の人々は救われないのです。パウロがテモテをこの教会に送ろうとしているのは、手紙だけでは彼らにしても変わることが難しいと知るからです。確かにピリピ教会の人々は主を信じ、信じる者に不可能はないと知っています。しかし、信じていても人である以上、信じることは難しいのです。しかし、主イエスを信じる者は変わることができます。そして変わらなければ、教会は地の塩、世の光としての働きができないのです。パウロは、この愛する教会が真の教会となること、変わることを願うので、テモテを送ろうとしているのです。

 何故かと言えば、パウロはこの教会の人々にしても、主イエスのことより、自分のことを先ず求めてしまう人々がいて、それにより教会の調和が乱されていると知っていたからです。どの教会も人の群れで、直した方が良い所があります。だからテモテを送るのです。テモテは彼らの話を聞いて、心から彼らのことを心配していました。その彼の言行を目にして、手本にし、自分と主イエスを見詰め直すことによって、彼らが変えられると期待したのです。

 これは福音宣教にも通じます。世の人は本やテレビ等で福音を知って心を動かされても、悪の力は強く、生き方を変えられる人は希です。でも福音に生きている私達を通して福音を知るなら、福音の良さを実感できます。勿論、主が用いてからですが。私達もテモテのように、福音の為に奉仕する者、世の光として輝く者になりなさいと聖書は命じます。とは言え、Ⅰテモテ4:11で彼に「あなたは、年が若いからと言って、だれにも軽く見られないようにしなさい」と言ったように模範を示すのは大変なことです。それだけにパウロは、彼が良い働きをし、彼らが世の光として輝く者となれるよう、言葉を尽くしてここで彼を紹介しています。パウロの優しい配慮が滲み出ています。

 次に、パウロはテモテを送る前にエパフロデトを送ると言います。ここからも、この教会の人々への彼の優しい配慮を見ることができます。彼は、ピリピ教会員で、パウロへの教会から贈り物を携えてきた人です。しかしただの使者ではありませんでした。パウロの活動を支える目的もあったのです。彼をテモテより先に、大急ぎで送り返そうとしたのは、彼が死ぬ程の病気になり、伝道の手助けができなかったことがピリピ教会の人々に伝わり、気にしている事を、パウロが重く受け止めていたからです。このピリピ教会はパウロがマケドニアを去った後も、彼の働きを助け、彼の必要を満たす為に二度も物を送りました。更に投獄中の彼の手助けをする為にエパフロデト送りました。彼は目的を果たせないばかりかパウロに心配を掛けてしまいました。しかし、彼を送るにあたっての「私の兄弟、同労者、戦友」「あなたがたの使者、私の必要に応えてくれたエパフロデト」との五重の言葉での紹介に、彼の優しい心遣いが溢れていますが、それだけではありません。彼の悲しみ、苦しみを自分のこととして受け止めています。更に、重荷を引きずりながら帰る彼の心が少しでも軽くなるよう「大きな喜びをもって、主にあって彼を迎え」「彼のような人達を尊敬しなさい」と彼の迎え方に注文を付けています。

 パウロの彼への優しい配慮は私達に、主は、人を良き働く人とする為に試練を与え、訓練する方、真実な方で、耐えられない試練に遭わせることはせず、耐えられるように、試練と共に脱出する道も備える方と教えます。だから、パウロにより道を整えられ、テモテ、エパフロデト、この教会が、主の良き働き人となっているのです。主は私達も深く顧みておられます。私達も、愛し合い、支え合う心遣いによって、より良い成長を遂げられます。パウロのように優しい配慮をもって互いに接しましょう。主の優しい配慮に包まれているからできます。教会は人の群れであっても、神の子供達の群れ、キリストの体。神の恵みと平安の満ちる所であり。地上にある神の国だからです。