メッセージ(大谷孝志師)
苦しむ者へ愛を
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年1月16日
ヨブ6:22-30「苦しむ者へ愛を」 牧師 大谷 孝志

 私達は主に祈り、主を礼拝している。主へのどんな思いで、主はどんな方と考えて、祈り、礼拝しているか。福音書を読むと、主には親しみさえ感じる。主は限りない優しさをもって人々に接しているから。ヨハネ8章に姦淫の罪を犯した現場で捕らえられた女性に対する主の言葉「私もあなたに裁きを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません」は、昔これを読んだ私に溢れるばかりの感動を与えた。またルカ19章に登場する人々から嫌われ、蔑まれていた金持ちで取税人のザアカイの家に客となって泊まった。その他、イエスが近づく人、或いは近づいて来る人の殆どが、医者に見放された病人、女性、子供といった、当時一人前として扱われていない人々、罪人として疎外されていた人々。

 主は触るのも、友達になるのも嫌と誰もが思う人々の友となった。その人々の惨めさ、悲しさを知り、自分の事として受け止め、心と体に触れる方だから。勿論、主イエスも人として生きたから、嘆いたことも叱ったことも、泣いたことも怒りを発したこともある。しかし、相手を決して切り捨てない。ゲッセマネで、自分を裏切るユダが、これがイエスとの合図だとしてした口づけを拒否せず受けた。主は黙々と人々を愛し続け、自分を必要とする人々を決して拒まなかった。

 今日の個所のエリファズは、サタンが与えた目を覆いたくなるような惨状に苦しむヨブの友人の一人。彼らはヨブの痛みが非常に大きいのを見て、声を上げて泣き、上着を引き裂き、彼と共に七日七晩、一言も話し掛けられず座っていた。

 しかし彼は、ヨブの苦しみはヨブ自身の罪の結果、神が与えたものとしか考えられない。そして、自分の罪を認めようとしないヨブに怒りすら覚えた。彼は、その罪をヨブに認めさせることが彼の為と思った。彼の言葉を読むと、間違った事を言っていない。しかし愛の無い彼の言葉はヨブの心に届かない。確かに彼はヨブに同情はした。しかし、彼と同じ所に立っていない、彼に寄り添っていない。上から彼を裁いている。彼のように私達も、自分では正しいと思い、相手の為だと思っていても、正しくない場合、相手を傷付けているだけの場合があるのでは。

 この箇所のヨブの叫びは悲痛の極み。しかしそれは、この苦しみの理由、意味が、何時迄続くのか分からず、御心を示して欲しいとの神に向かっての叫び。しかしエリファズは5:8で私なら神に訴えると言うが、彼は神に訴えてはいない。彼は気付かないが、自分を神の側に置き、神の立場に置いている。自分を厳しく神の御前に立たせていないから、彼の言葉は空しく響くだけでヨブの心に届かない。

 私達も、友が悲しみ苦しんでいると知ることがある。その時、同情したり解決策を教えようとしたりしてしまうのでは。自分としてはその人に、その状況の中でも生き生きと生きて欲しいと思うからだが。しかし相手からすると「あなたはいいよ。私とは違う状況の中に生きているのだから」という反応しか持てない場合が多いのではと、今、改めて反省させられいる。一番必要なのは、苦しみ悩む人のどうしようもない孤独感、やるせない空しさを、主イエスのように。自分の事として受け止め、愛をもって寄り添う事。主を信じていても、どうにかしたいがどうにもならない。祈りたい、でも幾ら祈ってもどうにもならないことはある。でも、今のままでいいとは誰も思わない。必要なのは、これを御心と信じ、主が相手に必要な事として与えた苦しみ悩みと信じ、自分自身が主の愛と信じること。その時私達も、主の愛をもって、相手に寄り添い、相手と共に生きられるから。