メッセージ(大谷孝志師)

エレミヤの嘆き
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年1月23日
聖書 エレミヤ13:12-17「エレミヤの嘆き」

 月に一度、エレミヤ書を学んでいます。旧約聖書は歴史書ではありません。これを読む人に、約二千年前の主イエスの十字架の死の贖いが、今も全ての人に必要であることを教える書物なのです。今日の箇所には、主がユダとエルサレムの人々に伝えよとエレミヤに命じたみ言葉が記されています。これを昔の人への神の言葉と受け取るのでなく、このユダとエルサレムの人々に、今の世の人々に共通するものを見ることを、聖書は読む私達に求めています。

 ユダヤ民族はソロモン王の死後、北イスラエルと南ユダに分かれました、エレミヤが活動したのはその数百年後で、北イスラエルは既にアッシリアに滅ぼされ、南ユダもバビロニアの脅威にさらされています。私達が今礼拝している主なる神は、分裂した北イスラエルと南ユダを共に神の民としました。彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと立てた契約を守り、彼らに神の民としての名声と栄誉と栄えを与える為でした。しかし彼らは、神の言葉に聞き従うことを拒み、心を頑なにし、他の神々に従って歩み、それらに仕え、偶像を拝んでいました。神にとって無用の長物となってしまっていたのです。

 主はエレミヤに「イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。」彼らがあなたに「酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか」と言ったなら、あなたは彼らにこう言え。「主はこう言われる。見よ、わたしは、この地の全住民を、ダビデの王位に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、共に。わたしは容赦せず、惜しまず、憐れみをかけずに、彼らを滅ぼす」と、ご自分に背き続ける人々に伝えよと命じたのでした。

 「酒壺には酒が満たされる」は、主が、彼らが言うであろうと言うように、当たり前のことです。この主の言葉を分かり易く言い換えると、「イスラエルの者達が、自分の欲求のままに生き、神から離れている。それがどんなに悪であるか分からない彼らを、私はたしなめずに、彼らの衝動のままに行動させる」ということです。つまり、彼らが互いに欲望をぶつけ合うままにさせて、それにより彼ら自身の手で自分達を徹底的に滅ぼさせると主が言ったのです。

 旧約聖書が教えている神は、人に選択の自由は与えていますが、罪を犯せばそのまま赦す方でありません。神はエデンの園に食べるのに良さそうで目に麗しく賢くしてくれそうな木を植え、実をならせました。そして、その実は食べても大丈夫と誘惑する蛇をその園に置いたのです。蛇の言葉を聞いて、その実を見ると正にその通りだったので、女が食べ、男も食べてしまいます。すると、神は彼らをエデンの園から追放しました。神が人に選択の自由を与えたのは、罪を犯すことの恐ろしさを人に悟らせる為では決してありません。そうではなく、人が自分の内にある罪がどんなに恐ろしいものかを明らかに悟らせる為です。私達も神は義で聖なる方と知ることが求められています。

 さてエレミヤは、主に命じられた通り、民に神の言葉を伝えます。彼は預言者だからです。私達も預言者です。私達は聖書を与えられているからです。
 何故なら、聖書には世の人々に伝えよと神が命じている福音が書かれているからです。聖書は全ての人の為に書かれた神の言葉です。私達は聖書を読み祈る中で、この福音を伝えよと命じている神の御心を知らされています。

 しかしエレミヤに告げよと命じた言葉は、言うならば隠された福音でした。神はイスラエルを選び、ご自分の民としました。これは神が与えた恵みです。彼らはこの良い知らせ、福音を喜んで聞きました。確かに福音でした。しかし、この福音には、神の言葉に聞き従うという条件付いていたのです。神は人をご自分と共に生きる者として創造しました。人だけをご自分のかたちに造り、自分の意思で神を礼拝し、神と語り合えるよう、自由意志を与えました。自分の意思で神の言葉に聞き従うなら、祝福された神の民となるという条件を守ることが求められる福音だったのです。しかし、イスラエルの人々はその自由を使い、神の言葉にのみ聞き従うことを拒んだのです。そして、神からの恵みは求め戴くけれど、他の神々にも仕え、従ってしまったのです。
 神はその彼らを悪しき民と呼びます。御心を知りながら、自分の思い、欲求を優先させたからです。アダムとイブは、悪の誘惑に陥り、神の禁止命令を破り、エデンの園、神が直接支配する世界から追放されました。それ以後、全ての人はこの世という神から隔絶された世界に生きているのです。現実に、私達が経験しているように、この世では人からは神に関われません。しかし、神はご自分が創造した人を切り捨ててはいません。神は絶対者で、御心のままに全てを自由に行う方なので、人が神と共に生きる者であるよう、神は人に自由に関わります。その為に神は人を創造したからです。更に言えば、この世は人からの一方通行の世界ではありません。聖書を読めばよく分かります。ノア、アブラハム、そしてエレミヤにまで神が関わって来て、人がそれに対応していると書かれているからです。ここでもエレミヤは「耳を傾けて聞け。高ぶるな。神が語られたからだ」と悔い改めを求めて人々に語り掛けます。しかし、神の言葉に聞き従わないこの神の民の現実に彼は直面し、嘆き涙にくれます。このまま神に栄光を帰せず、自分の思いのままに行動すれば、彼らは闇の中で滅びるしかないからです。旧約聖書は、このように人と神の関係、この世に生きる人々の現実、悲惨さを赤裸々に描き出しています。

 しかし聖書は、旧約と新約の世界は同じ世界と教えます。旧約の時代も新約の時代も同じ神が全てを支配しているからです。人が真に神に立ち帰り、神の民となるのを望む神は、御言葉に聞き従わない世の人々の為に、御子の十字架の死という犠牲を払い、人の罪を赦し、惜しみ、憐れみを掛けて、滅ぼさずに救い出しています。それが私達の父なる神の御心と、十字架と復活の主を見上げれば分かります。それを御霊が私達に知らせているからです。私達はその知らせ、福音を受け取り、主イエスを信じ、礼拝をしています。

 私達はこの福音を世の人々に告げる預言者の務めを主に与えられています。今は旧約でなく新約の時代なのです。でも世の人々はエレミヤが嘆いた現実の中に生き、福音を、御心を知らずにいます。私達も世の人々の為に嘆き、地の塩、世の光となり、福音を伝えましょう。私達も神の預言者だからです。