メッセージ(大谷孝志師)

失われた人を捜し求める主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年1月30日
聖書 ルカ15:1ー7「失われた人を捜し求める主」

 ある時、取税人達や罪人達が話を聞こうと主イェスの所に来ました。主は彼を迎え入れて一緒に食事をしていました。しかしそれを見たファリサイ人や律法学者達は「この人は罪人達を受け入れて、一緒に食事している」と文句を言い出したのです。しかし主は以前に「昼食や晩餐を振る舞うなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ち等を呼ぶな。貧しい人や体の不自由等、お返しのできない人達を招け」と、自分を食事に招いてくれた人に言ったことがあります。神が恵みを与える対象は全ての人なので、当然、取税人や罪人も入ります。しかし、ファリサイ派や律法学者の人達にすれば、取税人や罪人は、神に喜ばれない事をしているので、神の恵みを受けるに相応しい人とは考えられないのです。ですから、御前に正しい人と自認している彼らには罪人達を自分達と同じように受け入れている主のことが許せなかったのです。

 しかし、主は取税人や罪人が正しいと言っているのではありません。神に喜ばれない生き方、神に背いた生き方をしている人であっても、悔い改めるなら、神は受け入れるので、天に大きな喜びがあると主は知っています。ですから、取税人達にその機会を与えようとして、主は彼らを客として受け入れたのです。しかし主が教えているのは、それだけではありません。この世の多くの人々がその事を知らずにいるので、ただ来るのを待つのではなく、その人々を招きなさいと教えているのです。ですから、14:12以下の譬えの中で主は食事を招いた人に、「出て行って、お返しのできない人達を連れて来なさい」と言います。招くとは、出て行って、救いや助けを必要とする人と出会い、必要なものがあり、安心できる所があるからと、主の所に連れて来ることと教えられます。主はこの大切さを百匹の羊の持ち主の譬えで教えます。

 この譬えで注意が必要なのは、99匹の羊と見失った1匹の羊には違いはないことです。全ての羊は主の助けを必要としていて、見失われた一匹はその事実を表す象徴なのです。1匹を探す為に99匹を野原に残したのは、99匹は死に直面してはいない事を暗示しています。マタイ5:20で「汝らの義が、律法学者・パリサイ人に勝らずば、天国に入ること能わず」と言う主はここで、悔い改める必要のない99人の正しい人についても天に喜びがあると暗示し、律法学者達の正しさを認めています。しかし主は、自分達は悔い改めが必要な罪人ではない、見失われた羊と思っていない彼らが、そのままで神に喜ばれるとは言っていません。彼らは確かに、自分達は律法を守り、神に喜ばれていると思っています。しかし実は、彼らもまた見失われた羊であると主はこの譬話で教えているのです。彼らは、律法を犯していないから自分達は罪人ではないと思っています。しかし聖書はニコデモや富める青年の話により、彼らも主に探し出され、救われる必要がある見失われた羊と教えるのです。

 その事を教える為に、主は不平を言ったパリサイ人と律法学者達に、二人の息子を持つ父の譬え話をしましす。弟の方が、財産の内自分が戴く分の分け前を下さいと父に願ったので、父は自分の財産を二人に分けてやりました。

 弟は全てを金に換え、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまいます。貧しく飢え死にしそうになった時、彼は我に返り、父の元に帰ります。父は彼を大歓迎で迎えます。父の財産を兄弟に分けたので、残りは全部兄の相続分です。兄は弟を大歓迎する父に、自分は忠実に仕えたのに、子山羊一頭も私にくれなかったと不平を言います。弟が、子である故に持つことができた父の財産を自分勝手に使ってなくしたのに対し、兄は、父が自分に与えた豊かな財産を、自分が使える分と気付かずに、父の子であるのに僕の一人のように生きていました。弟は惨めな生活の中で、父の家の豊かさを思い出して父の許に帰りました。財産は自分と兄に分けられたのだから、父の家にあるのは兄のものです。しかし、彼は父に助けを求めていても、兄についての言葉は一切ありません。ここに主のこの譬え話の重大な意図があります。

 主は、弟を罪人達、兄をパリサイ人達に例えています。神が人の鼻に命の息を吹き込んだのは、人を神と共に生きる神の相手として創造したからです。ですから、罪人達もその命を持つには持っていたのです。救われる前の私達も同じです。しかしそれを失っているのです。彼らも以前の私達も、肉の欲望、欲求を満たす為に、その命を使い果たし、神との関係が断たれ、失われた羊になっているのです。人は自分ではその命は取り戻せないので、神の恵みと平安の内に生きる為には、弟のように悔い改めて、命を与える主の所に来る以外にはないと主は教えたのです。兄と同じように、パリサイ人達も自分達は神の祝福の内にいると思っていても、神との関係を失い、失われた羊になっているのに気付いていないと主はこの譬え話で彼らに教えています。

 主はこの弟と兄の話を通して、罪人達がご自分の許に来た理由を教えています。パリサイ人達は神に喜ばれる道を示す律法を調べ、民に教え、実践させていました。しかし自分流に解釈し、御心から離れているのに気付きません。人々に御心を教えても、盲人が盲人の道案内をするのと同じになっていました。ですからヨハネの福音書は、人が神と共に生きる者となる為に「道であり、真理であり、命である主が世に来た」と教えます。主は、全ての人が失っている永遠の命を戴けるよう道を開き、全ての人にその道を歩ませ、神に喜ばれる者として、神と共に生きる者とする為に、十字架に掛かって死に、復活し、今も全ての人を招いています。主は、この罪人達が。私の許に来ているように、パリサイ人達も私の許に来れば良いとこの譬えで教えます。

 主の許に来て、主の話を聞き、主が共にいると分かれば良いのです。そうすれば生き方が変わります。私達はどうでしょうか。確かに罪人のままです。でも、主を礼拝しています。主に新しい命を頂いて、生き方を変えられ、霊と真理を持って真の神を礼拝し、主と共にいるからです。私なりに例えると、主イエスを信じ救われた人は、古い人生の切符を新しいものに交換して頂き、永遠の命を頂いて命に通じる門へ向かう列車に乗っています。まだ救われていない人々も、列車に乗っていると安心しています。しかしそれは滅びに向かう列車です。主に新しい切符を頂き、乗り換えることが必要です。主は自分の許に来る全ての人にその切符を与えます。全ての人の救い主だからです。