メッセージ(大谷孝志師)

永遠の命を持つ喜び
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年2月13日
聖書 ヨハネ3:16-21「永遠の命を持つ喜び」

 今日の個所の3章16節は、新約聖書の中でも非常に有名は聖句の一つです。この福音書を記したヨハネはここで、主イエス・キリストとは何者なのか、何の為に世にいたのか。主イエスを信じる者にはどんな将来が保証されているのか、そして主イエスを信じない者はどうなるのか、これを要約すると、教会が宣べ伝えている福音とは何かをこの1節で示しています。彼は1:9で「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」。1:14で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と記して、主イエスこそが全ての人を照らすまことの光として世に来た「神の独り子」と教えています。

 そして神は「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と3:16で言います。神はなぜそれ程までに深く世を愛したのでしょうか。それは、神は愛なる方だからです。なぜ「神が御子を世に遣わした」のでしょう。そうしないと、人はそのままでは、全て滅びることになるからです。神は聖なる方、義なる方でもあるからです。なぜ滅びるのでしょうか。生まれながらの人は、神との関係が断絶しているので、「神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを(ロマ12:2b)」見分けられず、罪の奴隷となって死に至るしかない存在だったからです。しかしそれは神が望むことではありませんでした。なぜなら神は「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んで」いるからです。創世記2章に神と人との関係が記されています。神は、人を永遠に自分と共に生きる者として創造しました。しかし人は罪を犯し、神と共に生きる資格を失ったのです。しかし、旧約聖書を読むと、神は人を神と共に生きる者とする為に働き掛け続けていることが良く分かります。その御心をはっきりと示したのが、出エジプトの出来事です。神はイスラエルの人々を自分の民として守り導き続けました。そして「あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである(レビ11:44)」と命じました。しかし人は、自分の力で聖なる者となれず、滅びるしかなかったのです。ですから、神は御子を世に遣わし、「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」道を開いたのです。御子イエスを信じた人は聖なる者とされ、神の国に神と共に生きることができます。神の子供となる特権が与えられるからです。神と共に生きる者とされたので、主を信じる私達は、神の御霊に導かれて、この世で神の子供として生きています。ヨハネはこのように、今は、だれでも、主イエス・キリストを信じるなら、神の子供として、神に受け入れられ、神が支配する世界に、神と共に生きる者になれると教えます。その道は全ての人に開かれています。神が恵みと平安を与え、喜びと感謝をもって神と共に生きる人とする為に、御子を世に遣わし、主は十字架に掛かって死に、復活し、全ての人をご自分の許に招いています。神が御子を世に遣わしたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為だからです。

 次にヨハネは、御子を信じる者は救われ、裁かれず、滅ぼされないけれど、主イエスを信じない者はどうなるかを教えます。神の独り子である主イエスを信じない者は既に裁かれている、とヨハネは教えます。最初に、御子である主イエスは、全ての人を照らす真の光として世に来て、世に人として生きていた方であると言いました。彼はその後の1:11で「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と言います。彼は3:19で「光りよりも」と言います。つまり主イエスを信じない人々も、主イエスが真の光として自分達を照らしていることを知ってはいるのです。

 さて、主は30歳半ばで、公生涯と呼ばれる神の国の福音を伝える生活に入りました。福音書を読むと、弟子達は勿論、主イエスが行った奇跡を見た人々は、神の偉大さに驚嘆し、神を讃美しています。ヨハネは1:14で「私達はこの方の栄光を見た」と言いますが、この私達には、主イエスと接した全ての人が含まれています。例えば3:2で「神が共におられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」とニコデモが言ったように、主イエスがいる所には神が共にいて働いていることを人々は認めざるを得なかったからです。それなのに人々は主イエスを神の独り子としては受け入れなかったのです。勿論見聞きした時は素晴らしさを感じたでしょう。でも時が経つと、その思いが消え去ってしまったのです。更には、パリサイ人や律法学者達だけではありません。弟子達でさえ主の話を聞いて躓き「多くの者が離れ去り、もはやイエスと共に歩もうとしなった」と6:66にあり、ゲッセマネで主が捕らえられると彼らは主を見捨てて逃げ出しました。

 ヨハネは人々のそのような行動をさせた原因は「自分の行いが悪いために、人々が光りよりも闇を愛した」からにあると指摘します。悪を行う者は何故光りを憎むと彼は言うのでしょう。人は善悪を知るからなのです。人は誰も、自分の為に幸い、平安を願います。他人の不幸や危機を知っても、自分の為にならかったり、自分が害を受ける可能性があれば、悪と分かっていても、身を引いたり、放っておきます。私達もそうすることは無いでしょうか。自分では神は喜ばれないと分かっていても、神や他人がどうこうよりも、先ず自分を大事にしてしまう弱さを私達も持っているのです。しかし闇の中にいたままでは、先が、何が真実かが分からず、不安と恐れで右往左往してしまいます。ヨハネが「既に裁かれている」と言うように。主を信じていない自分だったことに気付きましょう。主を信じる者は、神は悪を憎み、善を喜ぶと知り、主に知恵と力を求められます。もう一度十字架と復活の主を見詰め直しましょう。神に大胆に近付けます。主はそのような私達だからこそ十字架に掛かって死んでその弱さ、罪を取り除いてくれたのではないでしょうか。私達の救い主であり、導き手である十字架と復活の主イエスを信じましょう。私達は永遠の命を与えられ、神が支配する神の国に神と共に生きているのに、友人知人家族を闇の中に放置したままで良いのでしょうか。その人々が救われ、神に平安を戴き、光りの世界に生きる道が開かれています。神はその為に御子イエスを世に遣わしました。神はそれ程迄に世を愛しているからです。