メッセージ(大谷孝志師)

キリストのものとなる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年2月20日
聖書 ピリピ3:1-11「キリストのものとなる」

 パウロは今日の1節で「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい」と言いますが、2章まで書いたとことの結びの言葉です。ですから「また同じことをいくつか書」くが、主にあって喜んでこれを読みなさいという意味ではありません。彼は、2:16、17で、邪悪な時代で、困難と闘いながら、世の光として輝く人々に、殉教の死を遂げようとも、喜ぶ自分と共に喜んで欲しいと言いました。25-で、教会の人々の代わりに命の危険を冒したエパフロデトをどう迎えて欲しいかを記しました。彼らに主に仕えて世に生きること困難さと喜びをそのように記した後に、結論として言ったのがこの言葉です。

 ですから「また同じことをいくつか書く」というのは、1.2章に書いたことではありません。この教会にいた時や離れていた時に彼らに教えていたことを改めて書いたので「また同じこと」と言ったのだと思います。勿論、この教会と今の私達は状況は違います。しかし、この世に生きる者としてパウロが大切な事としてこの後に教える事に耳を傾けるのは大切だと私は思います。

 パウロがここで言う「肉体だけの割礼の者」とはユダヤ人キリスト者です。勿論私達の周囲にはそのような人はいません。しかしパウロは、私達は「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者」と言います。当時の教会にはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がいました。勿論皆、主イエスを信じて救われた人々です。しかし全てではなかったようですが、ユダヤ教の教えを重んじる人々が教会の中にいました。正典として大切にしていたのはユダヤ教の聖書です。主イエスも使徒達もユダヤ教徒で、神についての教えもユダヤ教の律法による教えでした。ですから、ユダヤ教の教えを大事にする人々が教会の中で影響力を持っていたのです。それでは、律法は神がユダヤ人が神の民として生きる為に与えたものですが、人間にはそれを守り切れないから、神が御子イエスの十字架の死によって。主イエスを信じることで救われる道を開いたのです。ですから、ペテロは「この方(主イエス)以外には、だれによっても救いはありません」と言い、パウロも「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と教えたのです。主イエスを信じれば良いのです。しかし、ユダヤ人キリスト者の中に、律法守り、ユダヤ人のようにならなければ、神に喜ばれないし、良いキリスト者ではないとする人々がいたのです。私達にも、礼拝をきちんと守る生活よりこちらの方が良いとか、この世に生きているのだから、こう生きるべきと誘い掛けてくる人々がいるのではないでしょうか。パウロは、ユダヤ教に逆戻りさせようとする人々に気を付けて下さいとこの教会の人々にお願いします。彼らの誘惑に負けると、主の十字架の死が無駄になり、神が開いた救いの道からそれてしまうからです。彼らは自分達の優れた点を強調し、パウロはそれ程ではないと、教会で言い触らしていたようです。ですから彼は、彼らの間違いを指摘する為に、先ず自分はユダヤ人キリスト者として彼ら以上に優れた過去を持っていることを強調します。

 彼は、ユダヤ教徒だった自分を恥じたり卑下したりしません。それどころか「肉においても頼れるところがある」と、教会を迫害した自分を、律法による義についてなら非難されるところのない者と胸を張ります。ユダヤ教徒の生き方が悪で、それが駄目だからキリスト者になったのではないからです。

 私達も、この世の人生を振り返り、自己中心、自分さえ良けれ良いと生きていた自分の駄目さかげんに気付き、主イエスを信じる人生があると知り、それを選んだので、人として正しく生きられるようになれて喜んでいるのではありません。その程度なら、世の人々に引け目を感じてしまいます。私達は、主イエスを信じ、キリスト者としてこの世で誇りを持って生きています。その為に、主が十字架に掛かって死に、復活して私達と共にいるからです。

 パウロは、生粋のユダヤ人でパリサイ人で、人も羨む出自、生まれ、家柄でした。その後も、教会を熱心に迫害し、律法を非難されるところなく遵守したユダヤ社会の今で言うエリート中のエリートでした。彼は年若くして、殉教者ステパノの処刑の際、その正当性の証人達が彼の足下に置いた上着の管理を最高法院から委託される程の人物でした。彼が、このように自分が過去に誇りとしていたものを並べ立てたのは、それがこの教会の中にいたパウロが伝えた福音を否定しようと働き掛けている肉体だけの割礼の者達が大切にしていたことだったからです。彼らはユダヤ人キリスト者です。ユダヤ教徒の時に遵守していた律法に固執し、異邦人キリスト者にも律法の軛を負わせようとし、異邦人が神の救いに与る為には律法を守り、割礼を受けることを要求した人々です。ですからパウロは彼らを犬どもと言います。彼らが侮蔑を込めて犬と呼ぶ異邦人以下だと。そして彼は「しかし私は」と言います。彼は復活の主イエスに出会い、決定的な価値の転換を経験したからです。彼はこれ迄単に「キリスト」と言ったが、ここは「私の主であるキリスト・イエス」と言います。これは自分が主との深い人格関係にあると示す言葉です。

 彼はイエスを「私の主イエス・キリスト」と知ったことにより、過去の自分の一切を失いました。でもそれが塵芥に過ぎないと知りました。私達は主イエスを信じ、救われました。しかし主イエスを彼のように「私の主イエス・キリスト」と知っているでしょうか。主を知る素晴らしさに比べて、彼のように自分に大切で誇りだったものが、自分の人生に不安や恐れ、混乱や戸惑いの原因や理由になっていたと気付いたでしょうか。彼は変わりました。そして今迄まで自分に益だったものを損と思い、全てを捨てりました。自分がキリストを得る為、キリストの内にいる為だと言います。主イエスを信じるとは、自分の人生を180度転換させることです。自分を自分のものではなく、キリストのものとすることです。そうすれば、主がその人をご自分と共にいる者と受け入れてくれます。私達もキストの内に生きる事ができます。そこはキリストが私の主である世界です。主が私達に求めるのは、主が私達の為に死んだように、今までの古い自分が死ぬことです。主と共に死に、新しい自分として主と共に生きる者となることです。そうするなら私達は、肉の体の生と死から自由になり、主に全てを委ね、主のものとなって生きられます。