メッセージ(大谷孝志師)
今いるところにいる主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年2月20日
ヨブ3:20-26「今いるところにいる主」 牧師 大谷 孝志

 私達にとって教会は主イエスがいると実感できる所。だから、コロナ禍の中でも、一人でも多くの兄姉礼拝をこの礼拝堂で一緒に守れるようにと、消毒を徹底し、感染に注意しながら、会堂礼拝を続けている。先日も松本兄の信仰告白式、バプテスマ式が有ったこともあり、23名の方々が礼拝に出席し、彼が救われる恵みを感謝し、共に祝った。私は若い頃、主イエスに会いたくて教会に来た。来ると安心していられた。しかし、主イエスは私達がどこにいても共にいるのではないのか。教会に行ったことの無い人でも、聖書を読み福音放送を聞いて、教会に行ってみたい。イエス・キリストについてもっと知りたいと思う場合がある。主イエスがその人と共にいて導いているからに他ならない。

 では、教会と家庭、学校や職場はどう違うのか。昔、礼拝堂に置いていた荷物の中から現金とカードが入った財布が盗まれたことがあった。大きなショックを受けた。その後だが、自宅から物が盗まれた人がいた。両方のショックを考えた時、自宅と礼拝堂の度かが違うのかと考えさせられた。礼拝堂は確かに聖なる所。しかしそれ以外の場所と絶対的な違いは無いと気付いた。主イエスがいるところが聖なる所。主は私達に礼拝堂もこの世も同じと知らせた。主は全ての所にいて、生きて働いていると知らせる為と気付かされた。それと同時に、誰が盗んだのかと考えた時に、あの人この人の事を思い浮かべて、その人が盗んだ可能性があるかもしれないと少しでも考えた自分に気付き、激しく後悔した。自分が盗んでいないことは自分にしか分からないのと同様に、その人が盗んだか否かはその人にしか分からない。真実は主のみが知ると反省した貴重な経験を思い出した。

 自分は正しい、相手が間違っている。そのような考えが教会の交わりを壊していったそんな話を聞いたことがある。例え口に出さなくても、盗んでいない人のことを疑うのは、相手を傷付けること。主イエスは「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中で既に姦淫を犯した(マタイ5:28)」と言う。私達がなすべきなのは疑心暗鬼に陥らずに、誰だか分からなくても、それを盗んだ人の為に祈ること。

 重い事件だったが、私は大切な事を学ばさせられた。私達はどこにいてもそこに主が生きて働いているが、今の世にはサタンが共にいて、その働きに曝されている。だからこそ、主が共にいることを信じ、その主にしっかりと心を向けて生きなければならない。それを教える為に主はある人を用いてその事させたのだと。

 主はサタンを用いヨブに激しい災いを与えた。彼はその意味が分からず苦しみ呻いている。私は教会で熱心に遅くまで熱心に奉仕している人の財布が盗まれ、最初は何故と呻いてしまった。財布は駅のゴミ箱に捨てられていて、カード類は全てあったが、金は抜き取られ、大きな痛手だったことは確か。しかしこの事件は私に必要な事を悟らせた。主が私を変える為にした事と悟り、自分や他の人が体験している苦しみへの見方が大きく変わった。世の中には、何故こんな事がと苦しみ呻く人々が大勢いる。人生これからという時に突然の出来事で人生が大きく変わることが数限りなくある。しかし主イエスを信じていると、それらの事に意味を見い出せ、意味ありと知らされる。主が十字架に掛かって死に、復活して今も世に働いているのは、人がその人生を意味あるものとして生きる為。一人でも多くの人が、この世のどこにいても教会の中と同様にイエスが主であり、必要なものを与え、必要な経験をさせたと信じられる人になれるよう福音を伝えよう。