メッセージ(大谷孝志師)

死んでも生きる希望
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年2月27日
聖書 ヨハネ11:17-27「死んでも生きる希望」

 人は命を与えられてこの世に誕生した。そして、イエスが主キリスト、救い主と信じて救われ、神の子となり、神が定めた時に天に召され、神と共に御国にいます。私達の教会では年に一度。その主にあって天に召された方々を覚えつつ、その方々と生きている私達との神である主を礼拝しています。今日の聖書のマルタと主イエスの対話の中に、信仰、救いについて大切な事が教えられています。私達は毎年、ここに主に天に召された人々の写真を飾り、その人々のこの世での歩みを想いつつ、主を礼拝しています。神社神道では死んだ人を神として祀り、手を合わせ拝礼します。仏教でも死ぬと成仏、仏に成ると言い、仏として崇拝の対象になります。キリスト教は死んだ人を礼拝の対象にしせんま。昨年の落井姉の葬儀でも、お棺を共に礼拝する会衆席に置きました。黙示録14:13に「また私は、天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」とあり、死後どうなるかが記されています。具体的な死後の様子は、ルカ16章の金持ちと今日の話のラザロとは別人のラザロ、そしてアブラハムが登場する話だけです。

 バプテスマのヨハネ、十二使徒の一人ヤコブも最初の殉教者ステパノも殺されますが、その後について聖書は何も記していません。旧約聖書には、エノクは神が彼を取られたので、彼はいなくなったとあり、モーセは死んだ時、百二十歳であったが、彼の目は霞まず、気力も衰えていなかったとあり、エリヤは、火の戦車に乗って天へ昇っていったとあるだけです。新約聖書では、主と三人の弟子が高い山に登った時に、エリヤがモーセと共に現れました。二人は、死後も世に生きていた時と変わらない姿で神と共に生きていると聖書は教えています。とは言え、具体的に天の御国で二人がどのような状態でいるかを聖書は全く記していません。今日の箇所で、主イエスはマルタに「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きる」と教えます。よみがえるとは死ぬことが前提です。人は誰も必ず死にます。マルタとマリアは兄弟のラザロが死んだから、悲しみ嘆き、その二人を慰めに大勢の人が来ました。世の人々は、人が死ねば再び会えないし、語り合い、分かち合うこともできないと考えます。死は今生の別れだからです。しかし、主は「わたしはよみがえりです。いのちです」と言います。自分は死んでも生きると言ったのです。なぜでしょうか。主がいのちそのものだからです。でも人は死にます。いのちは与えられたもの、持っているだけだからです。しかし主イエスを信じる人は、つま、主がよみがえった方、いのちと信じる人は死で人生が終りません。御国で主に会い、先に召された人に会えます。

 マルタは、主イエスが神に求めるなら、神は何でも主に与えることを、ラザロが死んだ今でも知っていると主に言います。しかし、その前に彼女は、もし主が病ののラザロの傍にいたら、彼は死ななかったと言っていました。

 さて、私達も主イエスが全能者と信じていると思っているし、主の名によって求めるものは何でも神が与えると信じていルカら、主にも祈り求めます。しかし、信じて祈り求め続けても、与えられないことが多いのが現実なのはどうしてかを考えたことがあるでしょうか。私達は死んでも生きるという驚くべき知らせを希望を信じる為には、自分自身の信仰を立ち止まって見直すことが必要であり、その為の大切なヒントが今日の聖書に示されています。

 さて、マルタとマリアは、主に使いを送り「あなたの愛している者が病気と知らせました。しかし主は彼女達の所に行かず、二日留まったので、ラザロの所に主が来た時は、既に死んで四日経っていました。彼女達は主の到来を祈りつつ待ち続けたでしょう。でも、主は彼女達の求めに応えなかったのです。それでもマルタは「あなたが神にお求めになることは」と言います。主が神に求めなかったから、彼が死んだと思ったのでしょうか。私は、彼女は主には何らかの理由があり、自分達の求めに応えて来なかったと思ったのだと思います。私達も主の愛を信じるので、彼女のように考えるのではないでしょうか。彼女は、主に「あなたの兄弟はよみがえる」と言われると「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っている」と答えます。更に「生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬことはない。あなたはこれを信じるか」と言われ「はい、主よ、私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と言います。主の問いと彼女の答えにはずれがあります。何故なら、主は今それが起きると言っているのに、将来それが起きると信じると答えているからです。私達も注意しないと、主を信じているのですが、彼女のような信仰で主の御業、御心を考えている時があります。そこから一歩踏み出すよう主は私達にも求めています。

 私達は今、召天者を覚えて礼拝しています。主に天に召されたその人々が御前にいると信じています。そしていつの日か、私達が天に召された時、あるいは、主の日、世の終わりの日に、霊の体に甦り、天で再び会えると信じています。マルタもその信仰でした。しかし主は、そこから一歩先に進むことを求め、彼女に語り掛け続けています。しかし彼女は頭で信じるだけです。28節の妹マリアへの言葉に彼女の心の変化は見えません。マリアは主に会ってもただ泣くだけです。マルタは「あなたの兄弟はよみがえります」言われても、それが今起きる事だと信じられません。ですから、墓石を取り除けと言われても、臭くなっていますと言って断ります。主はその彼女に自分が今がどんな状況にいるかを知らせます。彼女は主に言われた言葉の真意を理解できませんでした。しかし正に、神がその栄光を現す時に彼女はいるのです。主は「信じるなら神の栄光を見る」と言います。主は彼女に自分は今神の国にいる、神が支配する世界、神が栄光を現す世界にいると信じる信仰を求めたのです。主イエスが父が既に願いを聞いたと感謝し、主が大声で叫ぶと、彼は復活して出て来ました。主は「あなたが私を遣わされたことを、彼らが信じるようになるために」と言いました。これは私達への言葉でもあります。「死んでも生きる」と信じましょう。ここに私達の確かな希望があります。