メッセージ(大谷孝志師)
信仰の豊かさを知る
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年2月27日
ローマ3:21-26「信仰の豊かさを知る」 牧師 大谷 孝志

 人間にとって最も大きな財産は信用と言われる。紙のお金で物を売り買いできるのも、金融機関にお金を預けておけるのも信用があるから。お金だけではない。信用は心も豊かにする。人を信じられ、人に信じられると気持ちが美しくなり、心も温かくなる。逆に人を疑うと心が冷たくなり、醜くなるのを感じる。

 主イエスは人の心の内を知るから人を疑わない。それだけではない。相手を徹底的に、そのままで受け入れる。愛を注ぎ込む。だから弟子達は安心して、全てを投げ打って主に従った。しかし彼らは、最後に主イエスを見捨てて逃げ去った。人故に、主の御心が知ることができず、行いにも言葉にも力のある預言者と信じてはいたが、普通の人間に過ぎなかった。聖書には信じる、信仰という言葉が数多く出てくるが、対象は当然神、主イエス、御言葉。信頼という言葉も多いが、物や人を信頼する場合は悪い例として使われる。だから、私達が誰かを信じるという場合、相手が確かな人物だから信じるのではなく、主イエスが相手と自分の主と信じるから、相手を信じ、主に全てを委ねて相手を受け入れることが必要。

 パウロは、神の義とは「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」で、与えられる人の人格や能力による差別はないと言う。しかし、相手がキリスト者だからといって、常にそのまま信じ、受け入れるのは困難。「全ての人は罪を犯して神の栄光を受けることができ」ないから。つい悪口や陰口が出てしまう弱さを持つ。だから「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められている自分であり、相手であると認めれば良い。主イエスを信じて、相手を信じ切ることは決して無謀ではない。私達の主であるイエスが共にいて、相手と自分を助け、良い方へと導くから。

 パウロは単なる理論として、或いは心の中の事として信仰を教えてはいない。信仰は、他人との接し方の中に現れている。人は一人で生きているのではない。社会の中で人との関わりの中で生きているから。その中で人が安心して相手と共に生きられるようにと、互いに人を信じられ、人に信じられる世界に生きられるようにする為に、主が十字架に掛かって死に、人を罪に支配されない者とした。それでも人は罪の誘惑に負け、相手の信頼を利用して自分だけを喜ばせたり、相手を信頼せずに相手を悲しませたりする。人は、自分の知恵と力では相手と共に安心して生きられない。どうしても自分中心、自分さえ良ければ良いという生き方をしてしまうから。しかしそれは神の御心ではない。だから神は主を復活させ、人を神の恵みと平安の中で生きられるようにと助け主を与えた。その主を信じるなら、人は主が自分を捨てて自分の十字架を負われたように、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従える。その歩みの中で、人は自分の罪をより深く自覚できるようになる。自分中心に物事を捉えさせようとする悪の力か自由になるから。

 そういう人と接すると自分が信じられている温かさを感じられる。その人の謙虚さにより、自分の心が豊かに暖かくなっていくのを感じる。とても不思議な事。それは身体的、精神的豊かさをは違う。魂を揺すぶられるような生き生きとした豊かさ。私達がそのような人に変える為に主が私達と共にいる。その主を信じると、主に安心して全てを委ねられる。私達の魂が主の愛と力に新鮮な感動を十字架と復活の主イエスを信じ切ろう。自分を捨て、主イエスに全てを委ねよう。そうするなら、私達は信仰の豊かさを知って、互いに信じ合って生きられるから。