メッセージ(大谷孝志師)

目標がある人生
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年3月6日
聖書 エペソ4:11-16「目標がある人生」

 私達は誰でも何らかの目標を持って生きているのではないかと思います。目標があると生きる張り合いがあるし、物事を前向きに捉えられるからです。とは言え、目標に向かって進んでいる内は良いのですが、到達した途端に無気力になったりすることがあります。私が若い頃に良く言われたものに五月病がありました。有名大学を目指して熾烈な受験競争を戦い抜き、無事合格した人が罹った病気です。燃え尽き症候群とも言われ、大会社に就職した人にも見られました。二年前のある調査によると、未だに五人に一人が経験したそうです。今は6月にもその病気になる人があり、6月病とも言われます。

 パウロも目標を目指して走り「私の主であるキリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえに、私はすべてを失った」と言い、更にⅠコリント2:2で「私は、あなたがたの間で、イエス・キリストしかも十字架に付けられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していた」と言います。彼はピリピ2:13、14で「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、…目標を目指して走っている」と書きましたが、目標以外のものが見えなくなるだけでなく、目標以外は塵や芥、損になったという点では、彼も受験に全てを掛け、五月病に罹る人に似てはいます。しかし、彼は五月病に罹りませんでした。私達もキリストの体であるこの教会の一員として、自分を捨て、自分の十字架を負って、自分なりの目標を目指して教会生活をしています。でも五月病に罹りません。何故でしょうか。殆どの人は、生きている内に目標に到達できないからです。彼が教えるキリスト者の目標はそれ程高いのです。つまり、パウロが教える私達の目標は「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで達する」だけでなく、その目標に達する為には、「かしらであるキリストに向かって成長する」ことが必要になってくるからです。

 この世では「受験競争」と言うように、ライバルを蹴落としてでも目標に向かえと人に号令を掛けられます。また、自分の心の内から号令が発せられる場合もあります。この世では、相手を思う優しい心は邪魔者扱いされます。更には、相手を先にやろうとしたら、変人扱いされることもあります。神は人をご自分に象って造りました。主を信ぜず、神の愛を知らない人は、この世の様々な闘いの中で、神が与えた人としての心の豊かさを失い、心が貧しくなり、自分の考えで遮二無二に前進してしまうからです。主は確かに「心の貧しい者は幸い」と言いましたが、そのような心の貧しさでは人は幸いになれません。主の御心を知り、主の包み込む広く豊かな愛を知り、それに比べ、自分の心の貧しさを知る人が幸いになると聖書は私達に教えています。

 「キリストの満ち満ちた徳の高さにまで達する」という目標に向かって前進しようとしても、教会も人間の集まりなので、個性のぶつかり合いの中で、相手との心の距離を感じたり、無気力になったり、落ち込むこともあります。しかしパウロが3節で「平和の絆で結ばれ、御霊による一致を保ちなさい」と言うように、私達は互いを無視せず、むしろ一つになろうとできるのです。

 世には厳しい競争があり、私達も世の人との関わりの中で、競争に巻き込まれることもありますが、教会という主が共にいる交わりの中にいると、競争心から自由になり、互いに共に成長する方向に向けるからです。何故なら、私達の神は私達に必要なものは何かを知り、それが必要な時に神は与えると知っています。教会では何かの有る無しで他人と競争する必要はありません。私達は逆に「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたのも同じようにしなさい」との主の教えを実践し、相手の為に生きることすらできます。

 競争は無くても、やはり目標は存在します。と言うのは、信仰の成長の度合いに個人差があるからです。しかし、世では差別や阻害の原因になりかねない個人差が、教会では他人に仕える為という恵みをもたらすものして用いられます。それが教会の交わりの善いところ、優れたところです。パウロは「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長する」と言いました。教会には、主によって共に豊かに成長していく目標が与えられています。その為には彼は、一人一人が体である教会の部分部分として、その分に応じて成長することが必要と教えます。それが一人一人の大切な目標になります。それは達成不可能な目標ではありません。何故なら私達は、あらゆる節々を支えてとして組み合わされ、繋ぎ合わされることにより成長していくからです。つまり、御霊が一人一人を結び合わせてくれるのです。ですから、教会は成長していけます。一人一人がその人に与えられた知恵と力で、できることをすればよいからです。勿論、個人差があります。できる事、できない事が人によって違います。彼がⅠコリント12:11で言うように「御霊は、御心のままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。ちょうど、からだが一つであっても多くの部分があるように、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様」だからです。教会も金子みすゞの童謡にあるように「みんなちがってみんないい」のです。

 今日の聖書を通して、私達の教会にも「あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」という目標が一人一人に与えられていると知らされます。とは言え、この与えられている目標、キリストに相応しい者になることを目指す目標は、とてつもなく高い目標です。しかし、主が与えている目標と受け取ることが大切です。何故なら、主は目標を与えるだけではないからです。パウロは「建てられることになります」と言い、その目標に到達できることが約束されている目標と教えています。私達は漠然とした未来を目指すのではありません。できない事をしようとするのでもありません。私達の教会も、多くの他の教会のように高齢化が進み、60,70歳代が中心で、40代以下の教会員は、数える程、教会学校の生徒も中学生以上ですし、幼児を連れた親子もおりません。しかし、主は私達の為に計画を既に立てていると信じましょう。その主に従い、与えると主が約束する将来に向かって希望を持って前進しましょう。主は言います「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」と。その確信をもって、共に歩みましょう。