メッセージ(大谷孝志師)

主の十字架の意味を知る
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年3月13日
聖書 ヨハネ3:22-27「主の十字架の意味を知る」

 今日は受難節第二聖日礼拝です。受難節は四旬節とも呼ばれ、復活祭の四十六日前から始まります。その間の6聖日を覘いた40日が受難節になります。聖日は、主の復活を記念し感謝する日なので、十字架の主の痛みを心に刻む受難節に含まれないからです。とは言え、今は主の十字架の死を心に刻む時なので、この個所を通して「主の十字架の意味」を心に刻みたいと思います。
 22節に「イエスは…バプテスマを授けておられた」とありますが、4:2に「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」が挿入されています。これを挿入したのは、バプテスマが初代教会の人々にとっては、大きな問題だったからです。問題の一つは、イエスがヨハネからバプテスマを受けたことです。使徒2:38でペテロが「罪を赦して頂く為に、悔い改めて、…バプテスマを受けなさい」と言うように、バプテスマは罪の赦しを受ける為のものだからです。主イエスが赦されなければならない罪人だったのかが問題になったのです。この疑問に対し、ヨハネを含め福音書は、御霊が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見たと記し、共観福音書は神の声、ヨハネは浸礼者ヨハネの証により、イエスが神の独り子、つまり罪なき方と宣言しています。第二の問題は、主イエスが授けたバプテスマと浸礼者が授けたバプテスマは、同じか違うかという問題です。主のバプテスマは聖霊に依り、彼のは水に依るので両者は違うとヨハネは言います。共観福音書は主がバプテスマを授けたことには全く触れないのは。それらが書かれた数十年後、ヨハネがこの福音書を書いた頃に、イエスにバプテスマを授けられたと証言する人達が出て来たのかも知れません。ですから、ヨハネはこの事を認めた上で、「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子達であったのだが」という説明を加えたと思われます。第三は更に大きな問題です。主イエスであれ弟子達であれ、ご自身が関わって授けたバプテスマと十字架と復活の後に主イエスが授けるよう命じたバプテスマは同じかどうかという問題です。主イエスはペテロ達を言葉によって弟子にしたからです。十字架以前のバプテスマが罪の赦しと救いのしるしになるとするなら、主の十字架と復活が意味を失うことになってしまいます。にも拘わらず、ヨハネが主もバプテスマを授けたと記したのは、浸礼者ヨハネと主イエスは確かに似てはいるが、主はどんな点においても浸礼者ヨハネに勝ることを教え、彼に惹かれる人々の目を主イエスにしっかりむけさせる為でした。ヨハネは、浸礼者自身の言葉によって、彼がイエス・キリストではないことを明らかにすることが必要と考え、その為に、彼の弟子達がイエスがバプテスマを授けていることを問題視したのを取り上げることによって教えたと考えられます。

 受難節は、十字架と復活の主を見上げ、神の愛の御業を心に留めて歩む時です。しかし、人としてこの世に生きた主イエスを神の子、救い主と信じることは、人にとっては非常な困難が伴います。私自身も、主イエスを信じる前は、そんな事は有り得ないと、教会の人達とムキになって論じ合いました。

 神であっても世に来たイエスと浸礼者ヨハネは、人々の目には同じ人です。違いは明確ではありません。彼もイエスも同じように神が世に遣わした人と考える人々がいました。ですから、誕生した教会が福音が伝える中で、ヨハネの存在は、無視できない程非常に大きかったのです。そこで、彼と神であるイエスの違いを明確にする必要がありました。31-36節は、神が記者ヨハネに知らせた真実と真理であり、神が全ての人の為に記させた御心と言えます。

 上から、天から来られる方とは主イエスで、地から出る者は浸礼者ヨハネです。彼は地に属し、地のことしか話せません。それに対し、主は世に来る前は、神の言として神と共に天にいました。そこで御子として見聞きした事を人々に証ししたのです。彼とイエスの違いは天と地程の絶対的違いでした。

 ヨハネは、神が光りである御子イエスについて証しする使命を与えて遣わした人です。彼は人々には光に見えましたが、彼は人々がイエスを神として受け入れ、イエスを神の子、救い主と信じる為に来たのです。ですから1:11の「この方はご自分の所に来られたのに」は、ただ来たのではありません。主が世に来たのは、その神の御心を知らせる為でした。1:12の「この方を受け入れた人々、その名を信じた人々」も、3:33にあるように「その証を受け入れた者」であり、神に真実であると認める印を押された人々のことです。

 ですから、世に来たイエスは人にしか見えなくても、浸礼者ヨハネとは全く違い、御子、世に来た子なる神で、イエスがいることは父なる神がそこにいることなのです。神は、御子イエスを信じるなら、その人を神の子供として受け入れ、永遠の命を持つ者とします。しかしイエスに聞き従わなければ、世の終わりの日、裁きの日に、いのちである再臨の主を見ることなく、火の池に投げ込みます。これが厳然たる事実、記者ヨハネが記す永遠の真理、福音なのです。福音は確かに良い知らせです。でも、ただ良い事だけを伝えるのが教会の使命、役目ではありません。御子を信じる者は永遠の命を与えられ、御子に聞き従わない者には神の怒りが降り、いのちを見ることがありません。つまり、御国に神と共にいることができないのです。記者ヨハネは、そして私達は「主イエスを信じる者は救われ、神の子供となり、永遠のいのちを持つ者になれるが、信じない者は永遠に滅ぼされます。これを信じますか」と世の人々に問い掛け、呼び掛ける使命、役割を与えられているのです。

 イエスは世に来て、天で見た事、聞いた事を証ししました。イエスは神が共にいなければ不可能な数多くの事を行うことを通して、神の御心を人々に証ししたのです。しかし、誰もその証を受け入れなかったと記者ヨハネは言います。人々は見聞きして驚いても、直ぐに忘れてしまいました。それ程、人の心を神から遠ざけ、御心を塞ぎ、人に見えないようにする悪の力は強いのです。その悪の力を打ち破る為に、主が十字架に掛かって死に、「世の罪を取り除く神の子羊」となり、滅びに向かう全ての人を救う生け贄となったのです。この受難節、私達は主が何の為に世に来たのか、神の国の福音を宣べ伝え、言葉にも行いにも力ある主が、何故十字架に掛けられて死なければならなったのかを悟り、主の十字架の死の意味を心にしっかりと刻みましょう。