メッセージ(大谷孝志師)

完全を目指せる喜び
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年3月20日
聖書 ピリピ3:12-16「完全を目指せる喜び」

 パウロは16節で目標を目指して走っていると言います。彼の目標は何でしょうか。彼が捕らえようとして追求しているものが10,11節に記されています。彼は「キリストの復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達」することを目指していました。12節で彼が「私は、すでに得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません」と言うように、自分が完全だとは思っていません。先日のオリンピック、パラリンピックに様々なアスリートが登場しますが、彼らも完全を目指して出場します。人は完全でないからこそ完全を目指します。ここに私達が完全を目指せる理由があります。しかしパウロが完全を目指すのは、完全でないからだけが理由ではありません。彼は、ダマスコに向かう途中で、十字架に掛かって死んだ主イエスが復活して、今共にいると知ったからです。彼は主と出会い、キリストの復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかってキリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したい、この主のようになりたいと思ったのです。私達も十字架と復活の主イエスが共にいると信じ、キリスト者として生きています。

 でも、主イエスのようになりたいと思ったことはあるでしょうか。勿論、主イエスの姿に少しでも近づきたい、もっと成長したいとの願望は持っても、主のように十字架に掛かって死にたいとまでは思わないのが普通でしょう。しかし彼はそれを目指す目標にして走っていたのです。それだけではありません。「私に倣う者になってください」と言います。可能性の話なら、私達にもその可能性があることになります。でも私達は可能性を考える前に諦めてしまいます。何故彼はそのとてつもない目標に向かって走れたのでしょうか。彼は、主が共にいることを実感していたからです。主がいなければ起きない事を度々経験したからです。そしてこれが一番大きいのですが、世の人々を愛し、人々が悔い改めてご自分を信じ、神の子となり、永遠の命を得て、神の世界に生きる者となるよう願う主の御心に触れていたからです。ですから、全ての人の為に苦難の道を歩み、十字架に命を捨てた主のように生きたのです。一人でも救われる為に、自分が通らなければならない道だったからです。

 パウロは、前のものに向かって身を伸ばしてその道を走れました。彼にその力があったからではありません。目標に全力で向かえるようにと、主が彼を捕らえていたからです。Ⅱコリント11:23-27を読めば分かりますが、人の力では無理です。彼にできたのは主が共に、時に抱き抱えていたからです。ですから、あなたがたも、自分には無理と思い諦めずに、一歩踏み込んで、私のように、キリストのようになる目標を目指して歩めるのですと言います。救われていない世の人々の為にそれが必要と知るからです。彼は更に、他の教会にも彼を手本にこの歩みをしている人々がいるので、その人達に目を留めて下さいと言います。倣うと目を留めるでは大きく違います。彼はこれで、自分なりに、自分にできると思う事を誠実にすれば良いと教えているのです。

 さてパウロは、15節で「大人である人」と言います。前の新改訳と文語訳は「成人」、「新共同訳は「完全な者」、口語訳は「全き人」と訳している言葉です。「大人」と言っても年齢がではありません。信仰的に成熟し、完全になった人です。とは言え、キリスト者で自分をそう思える人は皆無だと私は思います。しかし、人が自分や他人を見てそうとしか思えなくても、1:1にあるように、キリスト者は皆「聖徒」なのです。主イエスが私達を聖徒と見ていて、共にいて、私達を守り育てているのです。自分の目にどう見ようとも、主の支配と愛の内にいるとの前提で、自分も相手の人も見ることが大切と彼は教えます。

 ですから、自分の完全基準を人に押し付けてはいけないのです。置かれた環境や成長の度合いより、正しさの基準は人によって違うからです。相手の基準は大切にしましょう。なぜなら、主が人をそのあるがままで包み込み、その人がそこ迄到達したと見、その状態を良しとして認め、受け入れた上で生かしているのです。ですから私達も全てを主に委ねて、自分や相手がそこまで到達したと考え、そこを基準にして前向きに進めば良いと彼は教えます。

 しかし残念ながら、人は自分の考えが正しいと思う弱さを持っています、教会は信仰共同体として一つの群れであることが大切なので、その弱さを克服しなければなりません。その為に一定の基準を持つ必要があります。だから彼は「私に倣う者になって下さい」と言い「あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めて」と言うのです。彼は決して傲慢、高慢でなのはありません。彼は忠実な主の僕であるだけです。主が彼と共にいて彼を他人の手本としているのです。何故手本が必要なのでしょうか。人は、他人の言動に惑わされ易い弱さも持つからです。その一つは、自分や他人に比べて良いなと思った人に惹かれる場合にこの弱さが表に現れます。もう一つは、この人には何を言っても分かって貰えない、黙ってやり過ごし、言うことを聞くしか無いと思わされた時に出て来る弱さです。その時、自分の言動が正しい信仰に基づくかどうかを基準にしていないのに気付かないと、正しい信仰者の歩みから外れてしまうことが起きてしまいます。

 そうすると、勿論自分にはそのつもりはなくても、パウロが言う「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる」その一人になっているのです。主に愛されている者、主に従い共に歩む者ではなく、十字架の敵として歩む者に最後に備えられている「滅び」に向かう道を歩んでしまっているのです。

 地上の事だけに心を囚われると、御国に主と共にいるという目標を目指せなくなってしまいます。ですからパウロは「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」と言います。私達にはこの素晴らしい目標があります。そして私達の主イエス・キリストは、ご自分を信じる者を、この世の嵐の中でも目標に到達できるように、私達を捕らえています。ですから私達は目標を目指せるのです。そうです。目指せます。主は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言います。私達も彼のように、喜びをもって将来に向かって前進しましょう。