メッセージ(大谷孝志師)
自分の十字架を負う
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年3月20日
ピリピ2:12-18「自分の十字架を負う」 牧師 大谷 孝志

 今は受難節。主イエスが十字架に掛かって死んだことの意味を深く味わう時。

今夕はピリピ2:12-18を通して主の十字架の意味を深く味わい、私達も自分の十字架を負って世に生きる者になりたいと思う。主イエスの十字架の死を否定する者は、ここにいる夕拝出席者の中にもライブ配信の出席者の中にもいないと思う。この事は全世界で歴史的事実して認められている。しかし歴史的事実として知ることと主の十字架の死の意味を知ることは全く別の事柄。

 この手紙を書いたパウロは、初めは主を信じる者達を激しく迫害した。その彼もイエスが十字架に掛かって死んだことは否定しない。彼は、イエスは神に呪われ、十字架という木に掛けられたと信じていた。だから、イエスが全ての人を救う為に十字架に掛かって死んだことは、イエスの弟子達の戯言と当然否定した。勿論、イエスが十字架に掛かって死ぬ必要のある自分とは考えていない。彼は律法学者として聖書にも神についても詳しく、将来を嘱望され、ユダヤの指導者となる道を歩んでいた。だから、イエスの十字架が自分の為とも思わないし、ましてや、自分が自分の十字架を負って歩むとは考えてみたことも無かったと思う。聖書にも神についても人々に教える程良く分かっている自分だから、救われるに違いないと思っていた筈だから。それなら彼は何故2:12で「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言うのか。

 パウロは、ユダヤ教徒として胸を張って模範的歩みをしてきた。しかしその彼に、十字架に掛かって死んで神に滅ぼされたと思っていたイエスが、復活して自分に語り掛けてきた。その時、彼は何も分かっていなかったと気付いた。それ迄自分が築き上げてきたものが一挙に崩壊していくのを感じたのだと思う。そして主イエスと共に生きる彼の人生が始まった。「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めよ」は、実はその時以来、彼が歩んで来た道。しかし私達はこの言葉を読んで、これからそうしようと思えるだろうか。聖書を読み、礼拝に出て、説教を聞いても、もう一つ分からないと思ってしまう自分だと思うと、とても無理。第一、自分が主の御前にいることが確信できなかったり、聖書の言葉が自分に語られている主の言葉として心に響いてこない自分に、自分の救いを達成するのは到底無理と思うのでは。だからこそ、彼は私達に「神は御心のままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせて下さる方です」と教える。心を鎮め、主に「自分の救いを達成するよう努めさせて下さい」と願おう。主が心を整え、努力しようとの思いを強くさせ、行わせてくれる。神は聖書を通し、或いは祈りの中、教会の交わりの中、世の人との関わりの中で、私達に御心を示している。なすべき事を教えている。「できない」「なんで私が」と言わずに行おう。確かに、私達は悪が力を持つ曲がった邪悪なこの世にいる。だが、主の御力により、傷のない神の子どもとして世の人々の間で、世の光として輝ける。自分の努力が無駄でなく、労したこと無駄でなかったと知る時が来る。自分の救いを達成するよう努めるとはこの世で、自分の十字架を負って生きること。自分を捨てること。努力するとはそれ迄の自分とは違う生き方をすること。正に努力を必要とすること。でも自分を見て諦める必要はない。何故か、その思いを自分に抱かせ、行わせるのは主ご自身。私達の弱さを知る主、私の為に十字架を負って歩んだ主だから。

心を新たに、十字架と復活の主を見上げ、喜んで自分の十字架を負って歩もう。