メッセージ(大谷孝志師)

私にとってナルドの香油は
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年3月27日
聖書 マルコ14:1-11「私にとってナルドの香油は」

 第四週はエレミヤ書を学んでいますが、受難節なので。ある女性が非常に純粋で高価なナルドの香油を主の頭に注いだ出来事を通して十字架の主への思いを学びます。主は御自分の頭にナルドの香油を注いだ彼女の行為を厳しく責めた人々に「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに前もって香油を塗ってくれました」と言いました。これは過越祭の二日前の事で、翌日には最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、主の逮捕と最高法院での裁判があり、夜が明けるとローマ総督ピラトによる裁判と十字架刑の宣告、ゴルゴダでの処刑と死、その日の日没前の埋葬へと続きます。

 この記事の前に、祭司長、律法学者達がイエスを殺そうと相談したとあり、後に、イスカリオテのユダが祭司長達の所に行き、イエスを彼らに引き渡す相談をします。ヨハネ福は、主がラザロを復活させた後にこの事を置きます。

 この香油は、三百デナリ以上にも売れる非常に高価なものでした。それは当時の労働者の年収に相当します。それが彼女の財産のごく一部なのか、それともレプタ二枚を賽銭箱に入れた貧しいやもめのように全財産なのかは、実は重要ではありません。重要なのは、彼女が自分にできることをした、と主が褒めたことです。彼女が、主の遺体の埋葬に備えて香油を塗る意識を持ってしたとは考えられません。この家が彼女の家だったかどうかは不明ですが、当時、女性が男性達の食事の席に入ることは許されませんでした。ですから、彼女を引き留めたり、叱る人がいないことから、そこが彼女の家で、当時の習慣により、来客を迎えた彼女が、最大の歓迎の意を表す為に、その頭に香油を注いだと考えられます。しかしもう一つ大きな理由がここに秘められています。ユダヤでは、Ⅱ列王9:6にあるように王となる者の頭に油を注いだからです。彼女は意識せずに、イエスがユダヤ人の王、メシアとして遣わされた方であると宣言したことになります。マルコは彼女の行為により、イエスが神が世の人々を救う為に世に遣わしたメシア、キリストであるのに、この方を、人々は受け入れないばかりか、十字架に付けろと叫び、十字架に付けて殺したことをこの事で強調していると言えます。彼女は意識せずにしたのですが、私達はイエスは「世の罪を取り除く神の子羊」、神の御子キリスト」と信じています。彼女は自分が必要と思う事をして周囲の人から厳しい非難の言葉を浴びせられました。しかし主は彼女をかばい、逆に喜びを与えました。私達も彼女のように、人々にどう思われようとも、自分にできる最高のものを献げて、世にいる主イエスを自分の心に歓迎しましょう。主が彼女の献げ物を喜んだように、私達の思いを御心に留め、喜びで満たします。

 確かに彼女は、そこにいた弟子達が驚き、憤慨するような事をしました。昔、神学部の後輩が、牧師になりたいので神学校へ行くと親に言ったら、憤慨した父に包丁で追い回されたと証しました。信仰の世界に入るだけでも人は驚くのに、献身するのは、ここまで育てた親にとってははとんでもない事、訳の分からない事なので、憤慨したのは当然の事だったのかもしれません。
 しかし私の場合は別でした。私が献身すると知らせに来た牧師に、母親は、「17歳になったら、息子はお前から離れる」とのお告げを受けていたので「分かりました」とだけ答えたそうです。そして、親元を離れて生活する一人っ子の私の為に、毎月大きな犠牲を払って全面的に生活を支援してくれました。未信者だったのですが、両親にとって私を支援する事が、主に注ぐナルドの香油だったのではないかと、この説教準備をする中で私は思わされました。

 この女性がナルドの香油を主イエスの頭に注ぐと、何人かが憤慨して互いに「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」と言いました。何故かと言えば、施しはユダヤ人が救われる為に積み重ねる上で重要視した善行の一つだったからです。彼らは、何てもったいない事をしたのかというより、彼女が自分が救われる為の大きなステップを放棄したことに憤慨し、彼女を厳しく責めたのです。人が教会に来て、礼拝に出席すること、これも人が救われる為の大きなステップの一つです。私達は家族や友人知人が一人でも救われて欲しいと願っています。しかしなかなか来てくれません。それは、この大切なステップを放棄していることなのです。でも私達は、その事を憤慨し、厳しく責めないのではないでしょうか。今朝はここにユダヤ人と私達の救いについての考えに大きな違いがあると気付くことが必要と教えられます。

 私達は救いと滅びを他人事のように考えていないでしょうか。聖書を読むとユダヤ人は、日常生活の言動が救いと滅びに密接に結び付いていることに驚かされます。だから何ともったいない事をしたのかと思い、自分ならそんな事はしないと憤慨したのも、もっともな話なのです。しかしそこから一歩踏み込んで考えてみましょう。何故なら、彼らの憤慨の真の原因は、主イエスに対する思いが、彼女と彼らでは大きく違ったことにあったからなのです。

 彼女にとってナルドの香油は、それがあれば自分の欲しい物を得られ、したい事が出来た物だった筈です。しかし彼女にはイエスに感謝の思いを自分の行為で示す事が最優先だったのです。その香油は自分の為のものではなく、主の為のものになっていたのです。ですから、彼女にその香油が塵芥に思えたからではありません。逆に、自分にとって掛け替えのない最上の物だったのです。言うならば、幼子のイエスに東の国の博士達が献げた黄金、乳香、没薬以上の物だったのです。主イエスが自分にとって何にも代え難い方と思うから彼女はそれを主の頭に注いだのです。今は受難節です。十字架に掛かって死んだ主イエスの苦しみを心に刻む時です。主イエスは自分にとってどんな方かを、心を鎮めて考えてみる時です。この女性のように。何ものにも換えられない方として、世に来た主イエス、十字架に掛かって死んだ主イエス、復活して私と共にいる主イエス、私の心の内に住んでいる主イエスを真剣に見詰めているでしょうか。心にその主イエスへの感謝の思いが満ち溢れているでしょうか。私にとってのナルドの香油、自分の内にある主の為の最上の献げものを探し、私にも主に献げられるものが有るのを見つけたら。それを心を込めて主に献げましょう。主は良い事をしたとその私を褒めてくれます。